クリニシアン・消化器関連情報

消化管内視鏡を育てた人々

掲載記事は発行時のものをそのままの形で掲載しています。最新の医療における解釈とは異なっている場合がございます。
また、執筆者のご所属・肩書きも掲載時のままとなっています。ご活用にあたりましては、クリニシアン発行年月をご確認ください。

第1回 初期のガストロ

長廻 紘(群馬県立がんセンター 院長)

   内視鏡機器は断え間ない改良が加えられ、みえなくてもいいものまで見える、とのうれしい悲鳴まで聞こえる程になった。消化管が要求しているし、それに答える技術の進歩があった。
   筆者は、全消化管の内視鏡観察が可能になり、小さな癌も診断が確実性をもってできるようになった頃に内視鏡を始め、今日まで30年以上も内視鏡に関わってきた。諸先輩の苦労を知り、自分なりに苦労もしてきた者として、内視鏡のたそがれも視野に入ってきた今、過去を回顧し、未来を展望するよい時期と考える。

   『だいたい、真の専門家といわれる人は、その分野の“歴史の流れ”をはっきりとつかんでいなければならない。この意味は、何も発表された個々の文献を知るということではなく、その分野の、“歴史の大きな流れ”を把握することの重要性を指すものと考えていただきたい。そして、その“流れ”の中で、現在自分自身のおかれている位置を自覚するならば、おのずから自分の採るべき目標は明白となり、そこに達する最も有効な手段を発見するチャンスが生れてくるものと思うのです。』〈近藤台五郎:胃鏡の歴史に思う、Gastroenterological Endoscopy, 20, 999~1001(1978)〉

(1)カメラ検査中の宇治達郎先生

(2)同左

患者は目かくしをされている。
カメラ先端位置を知るために腹部が裸である。

   大学卒業後3年目の1968年(昭和43年)、できて間もない東京女子医大の消化器病センターへ入局した。当時は胃カメラが全盛期をすぎ、ファイバースコープが段々評価を高めつつあった時期である、と今から振り返ることができる。町田製作所(以下M社)は、近藤台五郎、常岡健二、竹本忠良先生の指導をうけ、ファイバースコープの実用化に務めていた。M社で新しいスコープができると、消化器病センターでテストをすることが多かった。それを若いわれわれが、その日検査予定の入院患者を早朝に起こして、先輩が現れる前に使って、よく叱られたものである。
   当時のファイバースコープは、光源にライトガイド(冷光)が使われてはいたが、写真撮影できるほど明るくはなかった。そのため熱中して写真を撮りまくっていると、フラッシュで先端部が段々熱をもってきて火傷(潰瘍)が生じた。「こんな新鮮潰瘍をみつけました」「馬鹿」が繰返された。「お前たちは、たまたまいい器具にめぐりあって、楽な検査をして、間の抜けたことばかりやっている」。そんなことを繰返していたある日、「これを読め」といってSchindlerの『Gastroscopy』という本を渡された。ある先輩が、「そうか、Schindlerを読めといわれたか、お前もここに置いてもえるかも知れないぞ」といわれたのを今でも覚えている。

   その頃、偶然目にした胃カメラ学会誌(現『Gastroenterological Endoscopy』)創刊号で胃カメラの開発者宇治達郎先生の「初期のガストロ」、あるいは『早期胃癌診断学講座II、胃カメラ診断』(文光堂)に崎田隆夫先生の「胃カメラの沿革と将来・諸器械の特徴」という文章をみて、内視鏡はこんな人達が育てたのだ。みえたみえたで喜んでばかりおれない、という思いを強くした。
   胃カメラは名前だけが有名で、実物をみる機会も求めなくては得られなくなった。この学会誌も今では手に入り難いと思うので、(一部省略して)再録する。宇治先生御健在なら、おうかがいして直接お話をうかがいたい所であるが、もはや叶わないことである。

(3)宇治先生使用(写真(1)(2))と同じカメラ

(4)IV型胃カメラ

   『昭和24年5月過ぎ、渋谷のオリンパス光学を訪ねた。私は胃内撮影のための小型カメラを製作することでこれが可能なものか否かの目安と、可能ならば製作依頼とを兼ねていた。医学上の立場から食道と胃との関係、胃の構造、大きさ、粘膜の具合等を述べ、さて小型カメラを直接胃中に挿入して撮影することが可能と思うが、カメラ並びにレンズ製作者の立場から製作可能かと尋ねた。研究室の杉浦氏は暫く考慮の後一言出来ると確言した。この言葉はその後の仕事中に色々の壁に衝突し私はその都度説明を求めるときも彼は少しも迷うことなく、誠に頼もしい発言をする男であると肝に銘じたものであるが、この初対面に言った可能のことばは私を勇気づけた。私の渋谷参りはこの時から始まった。さて切除胃の標本を撮影してみると、この型でも撮影は出来るが、映像範囲の狭いこと、小型に使用する豆電球の光度、フィルムの感度、更に螺管、操作部の点一つ一つ解決して行かねばならなかった。豆電球を製作する工場を尋ねたり、ビニール工場を訪ねたりした。研究室を出ると薄暗くなった道を山手線を越えて小さな「コーヒー」店に寄った。一杯のコーヒーをすすりながら本日の成果、失敗を語り、次の方針を定めた。私は杉浦氏の話に引かれつつ聞き手に廻っていた。誠に良い思い出の店である。
   (中略) これがほんとに飲み込めるかと技手連中はいう。私がのんでみても良いが入れてくれる人が素人ではねと冗談をいい合った。期待にふくれて机上実験、試写、アングル等を行い、「ガストロII型」が出来上がった。
 昭和25年6月頃、私はアッペの手術後、イレウスを起こして分院に入院していた。丁度先輩の坂本先生が胃潰瘍で手術をするが、「レントゲン」で潰瘍は発見したが「カメラ」で確認せぬ内は手術はしない。宇治君よ早速撮影してみてくれという。術後の腰痛がとれず、うなっている小生の「ベッド」へ来ての談判に致し方なく、やることとなった。手術室で6枚ばかりの、アップだダウンだと「カメラ」を向けている中に、何としても「フィルム」が巻き取れず失敗と思ったが、現像結果すばらしい写真となった。昭和29年5月「ガストロカメラ」が発明特賞を得たことは光栄であった。』
   宇治達郎先生の胃カメラ開発のご努力については、吉村昭氏の小説『光る壁画』(新潮文庫)にくわしい。内視鏡関係者で小説の主人公になる人はこれから恐らく出ないであろう。

   これから数回にわたって、今日の内視鏡の隆盛をきずいた諸先輩の苦労話を連載させていただく。

*お写真は東京都・多賀須消化器内科クリニック院長 多賀須幸男先生より拝借しました。
文献 宇治達郎:創刊によせて、初期のガストロ、Gastroent. Endosc., 1, 7(1959)

Eisai Group
human health care