クリニシアン・消化器関連情報

消化管内視鏡を育てた人々

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第3回 胃カメラの実用化

長廻 紘(群馬県立がんセンター 院長)

   宇治らの努力によって“完成”した胃カメラであったが、失礼ながら、飛行機でいえばライト兄弟(1903年動力による飛行に成功)のレベルだったかもしれない。もちろん今日に至るまで、100年近い航空機の歴史で最大の名前がライト兄弟であるように、宇治の名前も偉大さにおいては群を抜いている。しかし、たくさんの乗客を乗せて落ちずに速く飛ぶ機械を作るには、ライト兄弟と別の才能が必要だったように、胃カメラが日常臨床に応用できるようになるためには、別のグループの登場が必要であった。アイデアを実現するのにも勝るとも劣らない才能と努力ができる人達である。胃カメラの将来性とそれがどういう方面に生きるかを見抜ける、という意味である。
   そのグループの中心におられた崎田隆夫先生(日本消化器内視鏡学会名誉理事長)の回顧1)2)をインタビュー(99年8月19日崎田邸)を混じえて以下に紹介する。

   ──どういういきさつで胃カメラの改良に取掛かられたのですか?
   「私は肝臓の研究をする東大第一内科(田坂定孝教授)の第8研究室に所属していて、高橋忠雄先生が腹腔鏡を含めた肝臓病研究の宿題報告をなさるお手伝いをしていた。しかし当時の腹腔鏡では写真をとることができず困っていた。西新宿に住んでいたが、オリンパス光学が近くにあり、当時の営業部長や専務が隣組で、父の診療所の患者でもあった。こんな器械ができたといって宇治スコープを診療所で披露した。それやこれや重なって、腹腔内の写真を撮るのに胃カメラが応用できないかということになった。必ずしも乗り気になったわけではないが、田坂教授の強いすすめもあり、同級生で8研の同僚でもあった芦沢真六君などと胃カメラの改良に取組むことになった。
   話は前後するが、私は結核で1年休学した経験がある。その1年問で古今東西の小説を読みまくって、とくに二ーチェの生の哲学にひかれた。生の哲学とは全身全霊で物事にあたれ、ということだが、胃カメラの開発にまでその亢奮が持続した。だからその頃、一緒に仕事をした人達は今でも私のことをなつかしく恐れている筈ですよ。とにかく、何かあると“あんたはそれでも学問をやっているのか”と怒鳴りつけたものですから。
   もうひとつは学生の頃のC.ベルナールの『実験医学序説』の講読会をやって、大切なのは“ありのまま”ということを若く柔らかい頭の中にたたき込まれていたことです。胃カメラ撮影は、まさにベルナールを彷彿させ、検査時の室温、湿度、天候、患者の年齢、性別、身長、体重までいちいち記録にとり、撮影フィルム一コマ、一コマの撮影条件と、撮影時腹壁に見える胃の形など、すべて正確に記録して、検討を続ける日々の連続は数年にわたりました。」

   ──誕生したばかりの胃カメラはどんな具合でしたか?
   「胃カメラが故障頻発のため使いものにならず、まさに埋もれようとしている頃、私共がこれを取り上げ、その臨床応用に青春の血を捧げ、成功したのは昭和20年代の末の頃であった。当時を思い出すと、これが胃癌早期診断の快挙をもたらすことになるなど夢にも思わず、ただこれを臨床に使えるものにしようと、渾身の力を傾けたのであった1)
   悲劇(当初の胃カメラの故障は全くひどく、到底、臨床に使えるようなしろものではなかった。やる度に故障する、大げさにいえば、1人か2人やると故障する)は、生産会社オリンパス光学が、一応完成した胃カメラを、発明者の意図に反し、市販に早く踏み切りすぎたことに始まる。大きな失望、落胆が発明者、生産会社をおそったわけである。ただ私たちは、こわれ易かった器械を、どこまでも投げすてないで、がんばりつづけた。器械は修理にあけくれ、そして予約してあった患者におわびをする、そんなことばかりしている連続であった。自分で故障を修理できねば、臨床では全く使いものにならないという時期である2)
   しかし、III型カメラをいやがる生産会社にさからって、自分達で分解し、修理できるようにしたことが後から思うと、成功とあり得た不成功の分岐点だった。当時としては、とても高価な(12万円)カメラであったが、分解してみると、なんだこんな簡単な構造かということで、機械の構造がよく判ってから、これをよくするアイデアはそれこそ泉のように湧いて出たものだ。器械の改良について、特筆すべきは、V型の完成であろう。それまで、まだ実際にはあまり普及していなかった胃カメラが、V型の完成と共に急激な普及を始めた。このV型については、面白い思い出がある。器械を細く柔らかいものにしようという考えがいよいよこの頃煮つめられ、大幅に細い器械としたこの型で、集団検診が可能であろうということになったのであるが、集検に使う前に、自分たちでのんでみようということに相成った。そこで田坂内科8研一同がお互いに、あるいは自分でのんだわけである(写真)。ただ、器械があまりに固いのに驚いて、もっと早くのんでみればよかったとつくづく後悔し、“こんな固いことではどうにもならない”と強く会社に申し入れ、今の軟らかさにとうとうしてもらったのである2)。」

IV型胃カメラをのむ崎田隆夫先生

(「筑波大学消化器内科10年の歩み」より)

   ──胃カメラ検査の苦労話をおきかせください
   「当初の思い出としては、その頃の胃鏡の真似をして失敗したことがある。まず空気の入れ過ぎ、胃をできるだけふくらまして撮影した結果、ひだがすべてのびてしまって、当初の白黒フイルムの時代では真平らの平原が写る、すなわち何も写らないという駒の連続。このようなことに気がついて、空気の量を大幅にへらし、きれいなひだも白黒写真で次から次へと写して喜びにひたったこと、難関は案外つねにこのような、後から考えると些細なことにあった。これをコロンブスの卵というのであろう。それから、胃カメラ挿入を胃鏡と同じように、顎を真直ぐにそらせ、指を舌の奥に入れてカメラを押込んだこと、これでは患者はたまったものではない。胃ゾンデと同様にすれば、自然に胃カメラを挿入することができる。このような今考えると何でもないことが、やはり、大きなポイントの一つであった2)
   とにかくreal timeではなく、写真でしか判断できないので、とんでもない問違いをした恥ずかしい思い出がある。それは幽門輪を胃潰瘍として堂々と発表(エーザイの消化器商品パンフレットの表紙をかざった)して、胃鏡で実物をみて幽門輪をよく知っている常岡(健二)先生にこっぴどくやっつけられた。粘液池を巨大潰瘍と学会で発表したことがある。今となっては、むしろなつかしい思い出である。
   常岡先生は、それはきびしい方でした。しかし、そのうちに胃カメラを段々認めてくださるようになり、色々なアドバイスもくださった。近藤(台五郎)先生は中々胃カメラの価値を認めてくださらず、苦労した。竹本(忠良)先生も中々認めなかったなー。
   外科の先生方にも理解していただけなかった。びらん(IIc)を早期胃癌と診断して、外科へ送っても、まず手術してもらえなかった。たとえ開腹しても、手で触って、なんだ何でもないではないか、といってK教授が切除しないで閉じてしまわれたことが少なからずあった(これは前回の常岡教授のお話と軌を一にするものである)。常岡さんや白壁さんも同じような苦労を繰返されたと思いますよ。」

文献

1)崎田隆夫:往時茫々、内視鏡の夢、Alpha Club、155号
2)崎田隆夫:胃カメラの沿革と将来・諸器械の特徴、In.崎田隆夫ほか:早期胃癌診断講座II 胃カメラ診断

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