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クリニシアン・消化器関連情報

消化管内視鏡を育てた人々

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第6回 ファイバースコープの国産化

長廻 紘(群馬県立がんセンター 院長)

   日本では、ハラショビッツのファイバースコープ(FS)に最も早く注目し、その能力の将来性に気付いたのは胃鏡派の人達であった。それは前回述べたように、まだ経済的に豊かでなかった時代に高価なFSを購入して使用した近藤グループの行動に如実にうかがうことができる。FSの使用経験を重ねるにつれて、それが従来の胃鏡の持っていない幾つもの優れた長所をそなえていることを認めるにしても、早急に改良していかなければならない難点も明らかにされた。それには胃鏡検査の諸経験が非常に役立った。このあたりの事情は近藤先生(写真1)の『胃鏡の歴史に思う』によく示されている。
   「私の第一印象を率直に申しあげるならば、ハラショビッツという人は、どの位、胃鏡術について苦労をした人なのであろうか?という疑問でした。その尖端のゴツイことは大したものであったからです。尖端部の太さ、長さの1mmの違いが挿入時の困難度、患者に与える苦痛にどれ程、大きく影響するかを身にしみて感じていたからです。その他にも、この器具は、いろいろな小さな欠点を持っておりました。が同時に、この器具が内視鏡として軟性胃鏡に代わって将来圧倒的な強さを持つであろうことを疑うことはできませんでしたので、この改良に全力投球をする決心をしたわけです。つまり、私共は、シンドラー式胃鏡に慣れていたればこそ、ハラショビッツの胃鏡の持つ長所、短所をはっきりと見きわめることができ、したがって改良を企てるにしても、最初からその焦点を絞って、そこに全力を投入することができたのです。」

(1)近藤先生

本誌210号表紙より

   (竹本先生のインタビューを続けます)
   ──近藤先生もおっしゃっていますが、ハラショビッツのFSを使って、不満な点も多く、国産スコープの開発を思い立たれたと聞いていますが、なぜ町田製作所と組まれたのですか。
   「町田さんは、それまでに硬性鏡(胃鏡、直腸鏡、腹腔鏡など)の製作経験が豊富で、内視鏡というものをよく知っておられたからです。初期のFSは、本体はグラスファイバーを使っていましたが、光源はランプであり、光源ランプの改良で一緒に仕事をしてきて、町田さんの実力を高く買っていました。それ以上に重要なのは、社長をはじめスタッフが若く情熱的で、内視鏡にかける意気込みがひしひしと感じられました。町田さん御自身に胃鏡からFSに全面的に切り換えることに社運をかける勇気があったわけです。」

   ──どのような方針で作業をすすめていかれましたか。
   国産の診断用FSの開発にあたっては、ハラショビッツのFSの長所を生かし、短所をできるだけ補うという方針をとり、国産化が進められました。ハラショビッツのスコープには若干の欠陥、とくに側視野がの30°と狭く、胃のなかをくまなく短時間でみることはかなり問題があるので、視野を拡大することと、アングル機構をとりいれることが必要など、いくつかの条件をつけました。われわれはその将来性を高く評価し、いずれFSが消化管内視鏡の王座を占めるときがくるであろうと考えたので、自信をもって進めていきました。
   国産FSの開発は比較的順調にいって、とくにもうだめだと悲観するような難所はなかったように記憶している。FGSA1型(写真2)の試作に成功したのが、1963年10月でした。
   その後種々の点に改良を加え、1964年9月に完成した新A型FGSに至って、多くの点でハラショビッツのFSをしのぐ性能を有するものになりました。満足できる国産のファイバースコープが完成するまでに、診断用は器械を7回つくらせて、やっとOKを出しました。生検用は4回、主として先端硬性部を改良して、実用化しました。ハラショビッツのFS、町田のA型FS、いずれも光源にランプを用いていました。C型(B型は生検のB)でオプチカルファイバーを導光体とする長時間観察・撮影が可能なスコープの完成をみました。」

(2)FGSA1型ファイバースコープ

二連球で送気を行う

   ──なにか思い出に残るエピソードがございますか。
   「国産ファイバーガストロスコープ(FGS)の完成には、亀谷晋博士の功績が大きかったことを、ここで強調しておきたいと思います。最初町田がつくった直視式のファイバースコープは材料をよせあつめて試作したものであり、ファイバー束自体、亀谷がかなり無理して外国から入手したものを使用したし、日本におけるグラスファイバー製造のパイオニアとなった日本板硝子と町田との協力関係も、亀谷の斡旋によるものでした。」
   このFSの国産化に若き日の情熱をかけられた町田製作所の当時の社長で現相談役である町田恒雄氏(写真4)に、当時の様子をおききしました。(1999年7月)
   「57年には東京大学第3内科竹本忠良先生に川島式胃鏡をご使用いただき、毎週の如く行われる内視鏡検査に何がそうさせたのか、いまだにはっきりとしないのですが、その都度お手伝いをさせていただき、消化器内視鏡の在り方などについてその知識を学んでおりました。1960年米国でHirschowitzによるファイバースコープの研究論文が発表され、その文献を入手し読むにつれ、次ぎなる内視鏡の主力になると感じ、当社は、昼は仕事、夜はその研究開発と、全力をあげて着手いたしました。未だファイバースコープの実物にお目にかかったわけでもなく、暗中模索の中、日夜研究に没頭し、徹夜も日常の如き硝子繊維との格闘の毎日でした。
   そんな状態の続いていたある日、当時川島クリニックの副院長であられた近藤台五郎先生が、たしか1962年6月であったと思います。突然当社にお見えになり、ACMI社製のファイバースコープを持参され、“このスコープを写真の撮れるものにしていただきたい。このまま置いて行きますが、場合によっては壊してもいいですよ。”といわれ、私に預けて行かれました。私共としては夢に見た器材で、それも充分に触わって見られる。私は先生がお帰りになられた後も興奮で身体がふるえていたのが想い出されます。

(3)遠藤光夫教授の食道シネエンドスコピーを見守る町田恒雄氏

   約1年後の秋、鹿児島で開催された消化器病学会の会場近く城山ホテルのロビーにて、当社の開発したイメージバンドルの試作品を近藤先生はじめ常岡先生方に初めてお目にかけることができました。またその年の12月には、町田製国産ファイバースコープ第1号を近藤先生のご指示で虎の門病院にて福地創太郎先生と共に、その実験に参加、先生方より充分に臨床に使用できるよとのお言葉をいただき、社運をかけた喜びにひたったものです。」(註(1))

ファイバースコープ付胃力メラ(GTF)の開発

   胃カメラは、その盲目写真術という欠点を克服するために、ファイバースコープと組み合わせることによって、胃カメラはファインダーを獲得した独得の構造を有するファイバースコープ付胃カメラ(GTF)へと進化した。
   「ハラショビッツのファイバースコープを見て帰国した芦澤真六教授(写真次回)から日本で開発すべきであると強く促され、早速研究を始めました。実物は見たこともなかったのですが、文献を通して大体のことはわかっていましたから、それほどの困難はありませんでした。ただ当時の技術で作り得るファイバースコープの解像力では診断には十分でないと考えていましたので、それをファインダーとして胃カメラに組み込むことを最初から考えていました。こうして1963年頃に完成したのがGTFです。」(深海正治:ファイバースコープの開発)

(4)GTF

   「まず、屈折率が高く、透明なファイバー作りに取組みました。ファイバーの材料がポイントとなるのだが、柔軟性の観点からプラスチックに着目し開発を行う。しかし、当時のアクリル材料では色がつく、屈折率も低く暗い、などの問題があり断念しました。次にガラスのファイバーに取りかかったが、素材メーカーとの共同研究を繰り返し行い、透明性が高く屈折率の高い材料を入手できるようになりました。
   細いグラスファイバーをいかにしてきちんと配列させて束にするかも大きな課題でした。大きな円筒に一定の長さのファイバーを面にそって順々に所定本数巻きつけて、端と端をのり付けする方法(俵積み)でした。当時、ACMIのファイバースコープでは、配列や太さがバラバラであり、どのように束ねていたかは不明です。
   コアのグラスファイバーに被覆するクラッドに何を使うかも課題でした。より屈折率の低いガラスを被覆するか、プラスチックを被覆するかの選択が生じましたが、両方を並行して開発を進めました。ガラスにガラスを被覆するにはどのような方法でやればよいか見当がつかず、私は当時ガラス理論・基礎研究の面で進んでいた通産省の大阪工業技術試験所に弟子入りし、研究を進めました。
   胃カメラグループの先生方から、オリンパスもファイバースコープを早く出すようにとの声が大きくなり、昭和37年の胃カメラ学会に出品することになりました。これはプラスチック被覆ファイバーによるスコープであり、像には黄色い色がつき医師たちの評価も“まだ、これではとても他社製品に太刀打ちできない”という厳しいものでした。あらかじめわかっていたものの、屈辱感はたいへん大きいものでした。
   生産開始まで被覆方法は最終的には決め兼ねており、逡巡を重ねて両方の設備を入れるよう上司と一緒にかけあい、何とか投資を了解してもらいました。最後は、ガラス被覆技術が間に合い最初の製品であるファインダー付きガストロカメラGTFが昭和38年(1963年)に発売されました。GTFを使って胃内を初めてのぞいたとき、私はつややかに輝きバラ色に息づいているのを見て“何ときれいなものだろうか”とその美しさに魅せられました。」(中坪尋雄:元オリンパス技術開発本部長)

   GTFは日本的な、よいとこ取りの理想的スコープであった。しかし、両者の長所をかぎられたスペース内でともに充分に生かす、ということは難しかった。FSの進歩は急速であり、ライドガイド方式の導入などもあいまって、よくみえ、かつきれいな写真もとれるFSの時代をむかえた。GTFは結果として胃カメラの栄光を示すひとつのエピソードであったように思える。

註(1):実際の開発を担当した町田雅史氏の『開発の思い出』から。

   「私のこれまでの体験の中で、もっとも印象に残る出来事に、ファイバースコープとの出合いがあります。初めてACMI社製のファイバースコープを目にしたときの驚きは、今でもはっきりと覚えています。スコープの道中を曲げると、なんと自分の顔が写っているではありませんか。画質はいかにもファイバーに写しているという画像ですが、実用性はきわめて高いものでした。
   このスコープを手本に、国産のファイバースコープの開発に着手したのですが、最大の課題はイメージバンドルの開発でした。まず、光学繊維そのものの品質(糸の太さの精度、引張り強度、着色、透過率の差など…)、光学繊維をフィルム状に並べる方法、積層方法、カットの方法、チュービングなど、すべてが初めての経験でした。さらに、イメージバンドルの性能をACMI社製以上のものにしようという計画を立てて、単繊維18μ、断面4m/m角、長さ1000m/m、約5万画素のイメージバンドルの開発に着手しました。
   当時、私たちの会社のそばに学校があり、その時計塔と避雷針をスコープの検査目標として使っていました。試作品を一本つくるごとに時計塔を見るのですが、当初は時計塔の形をしておらず、何だかぽんやりとした建物のような形が見える程度でした。開発の進歩につれて、段々と時計塔の形がわかるようになり、避雷針が見えるようになったときは、とてもうれしくなったものです。」

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