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クリニシアン・消化器関連情報

消化管内視鏡を育てた人々

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第9回 コロノスコープの開発 その1

長廻 紘(群馬県立がんセンター 院長)

コロノスコープの開発

   ファイバースコープ(FS)が胃で現実のものとなると、誰でも考えるのは大腸の奥深く、できれば病変の多い全大腸・終末回腸の観察である。胃FSで力をたくわえた日本のメーカーが、満を持して乗り出してきた。ほぼ真直な食道・胃と異なり、屈曲に富む大腸の中をのぞくことは、当初の想像以上に容易ならぬことであった。歴史的にはコロノスコープ(CF)の開発が古いが、もたもたしている間にERCPがポスト・ストマックの名乗りを上げてしまった。
   大腸の内視鏡検査は硬性直腸鏡(ロマノスコープ)で古くから外科医によって行われていた。しかし、といっては叱られるが、当時の外科医にとっての直腸鏡はあくまでも、日常臨床の必要があってのもので、夢をはらんだものではなかった。全大腸をみることはX線で十分できているではないか、であった。
   日本では、1960年代には腺腫・癌を含めて大腸疾患は少なかった。それでも直腸鏡にはあきたらず、今回述べるように深部大腸を内視鏡的に観察しようという試みがなされている。それは胃カメラの普及、早期胃癌の診断ブームによって内視鏡人口が増えたこと、ファイバースコープが国産化されたことなどが相乗したと思える。かくいう筆者も、1968年に胃内視鏡を始めたが、すぐ胃ファイバースコープで大腸をのぞくことを盛んにやるようになった。胃では研究者が多いし、大きな仕事もすんでいて、今さら、という気がした。手掛ける人も少なく、海のものとも山のものとも知れない大腸に挑戦しようという若気ないし野心のようなものがなかったとはいえない。側視鏡である胃FS、大井式十二指腸FSを使って大腸の観察を行った。脱線ついでにつけ加えると、病気どころか腸すらよく知らずして、検査していたのであるから今から思うと恐ろしいことであった。筆者を含めて昭和40年前後に大学を卒業した者達は、その後続々登場した“経歴の最初期から医師としての陸(ろく)なトレーニングもうけないうちに内視鏡を始め、内視鏡医としてキャリアをつんできた人種”のはしりである。
   閑話休題:深部への試みは、まず胃カメラを改造して大腸カメラが試みられた。早くも内視鏡学会誌(Gastroent. Endosc., 1巻1号1959年)に松永藤雄教授(写真1)らの第1回日本胃カメラ学会総会抄録がのっている。そこに『我々がsigmoidocameraの試作に成功して以来、約150例の撮影経験を重ね(中略)従来の方法では全く不可能であった大腸の深部、即ち肛門輪から45cmもの深さの粘膜像をキャッチできる様になった点である。また、連続撮影したカラー写真は永久に保存でき、撮影をくりかえすことにより経過をフィルム上で比較検討できる点である。』

(1)松永藤雄先生

本誌221号より(1973年)

   写真2にsigmoidocameraIII型機と回盲部まで挿入されたカメラのX線写真を示す。
   色々の制約があったが、得られるもの(診断能)より、労力の方が大きく、実用化・普及することなくファイバースコープに席をゆずった。大腸カメラは、胃カメラ人気を別の形で示すものであったが、胃のほかには二匹目のどじょうはいなかった。

(2)a sigmoidocameraIII型と電源装置

(2)b 回盲部まで挿入されたsigmoidocamera

   胃鏡や胃カメラの歴史があり、解剖学的に構造は単純である胃FSと違って、大腸FS(コロノスコープ)では幾多の解決すべき技術的な間題があった。その他に、日本では今と違って大腸疾患とくに腫瘍が少なく、CFが商業的に成り立つかということも心配された。
   今日世界中で市販され使われているコロノスコープの起源は日本にある。胃FSの技術・経験をもつ町田製作所、オリンパス社によって開発が進められた。町田スコープは、最初は十二指腸を対象としたものの流用であったが、大腸への挿入は極めて難しかった。そこで大腸へ適合するよう、ライトガイドを除き先端電球照明とし、外径を細くしたものが作られたが、このスコープでも下行結腸への挿入は困難であり、実用に供するのは無理であった。東北大学では山形敞一教授(写真3)の指導のもと、渡辺晃(現国立仙台病院)が町田のスコープをIV型(66年)、V型(68年)、VI型(69年)と改良を重ね、1970年のVII型(有効長190cm、上下左右の4方向アングル、先端に柔軟部あり)で深部挿入可能なFCS(Fibercolonoscope, Machida)の完成となった。

(3)山形敞一先生

本誌123号より(1965年)

   オリンパススコープは直視式ファイバースコープを改変し、先端レンズを着脱可能とし、直視と側視の両者に使えるようにしたもの(III型)であった。このスコープも連結部の弾性のために、下行結腸以上への挿入は困難であった。その後もプリズム回転式でアングル機構を備えたスコープなど試行錯誤が繰返されたが、S状結腸を確実に越えるスコープはできなかった。
   オリンパスでは東大田坂内科の丹羽寛文、弘前大学松永内科の田島強(くわしくは次々回参照)がもっぱら推進役となった。CFの開発において、解決すべき間題は多々あったが、スコープの有効長がそのひとつであった。すなわち、スコープを長くすれば操作も繁雑となり検査に長時間を要し、ルーチン化しにくい。しかし、短いスコープでは全大腸の検査はなし得ない。丹羽らは、深部の観察はひとまず将来のこととして、まず直腸鏡の到達範囲を越え、しかも腸管相互の重なりのためX線検査も比較的困難な、かつ病変の多いS状結腸全体を確実に検査できるようにすることが先決と考えた。
   CF開発に最初期からたずさわり、大腸カメラのご経験もある丹羽寛文内視鏡学会理事長(写真4)におききした。(2000.2.20内視鏡学会理事長室)

   ──先生は内視鏡の歴史にもご造詣が深く、この方面では唯一のものである『消化管内視鏡の歴史』(日本メディカルセンター、1997)を上梓しておられます。先生と内視鏡の出会いはどのようでしたか。
   「新聞などで胃カメラのことを知ってはいましたが、消化管全般の研究がしたかったので、最初はとくに内視鏡をやろうという気はありませんでした。伯父が日本のレントゲン装置設計のパイオニアであったりして、内科医としてX線を使って仕事をしようと漢然とは思っていました。出張病院(茨城県立友部療養所)で気管支鏡、直腸鏡の手ほどきを受けたりして、段々内視鏡にも興味が湧いてきました。田坂教授から“弘前で腸の内視鏡をやっている。うちの教室でも腸をやらなければいけない”ということで、私が大腸カメラの仕事を受け持つようになりました。」

(4)丹羽寛文先生

本誌446号より(1995年)

   ──常岡先生は内科系の医者が胃鏡など道具を使って検査をすることに、周囲の理解がなかったと嘆いておられましたが…。
   「今とは全く違って、内科では機械を使って診断するという発想に乏しく、内科医が扱う機械はせいぜいX線検査まででした。胃カメラが外科の先生(宇治)によって先鞭をつけられたのも、そういう空気が関係していたかも知れません。大腸も、内科では検査は注腸検査に限られていました。直腸鏡は外科の領域でした。
   余談ですが、X線検査に関しては、今と違って放射線科ではなく、むしろ内科が主となって行っていました。当時の放射線科は放射線治療が専門で、診断にはあまり手を出しませんでした。日本で胃鏡が普及しなかった背景には、内科教室のこのような事情が大いに関係しています。しかし、その当時東北大学黒川内科で留学から帰ってきた石川誠(故人、山形医大名誉教授)が、アメリカのシステムを教室に導入されたことが関連しています。その門下である渡辺(晃)らが直腸鏡検査を熱心に行っており、また弘前大学でも松永教授が内科学会の宿題講演で潰瘍性大腸炎に教室を挙げて取り組まれ、その一環として直腸鏡、大腸カメラを始めていたという背景がありました。」

   ──CF開発当初の状況をおきかせください。
    「大腸カメラは奥まで入らず、V型カメラで1例だけ左結腸曲まで挿入できたのが最深記録です。ついでCFに取組みましたが、やはり奥まで入りませんでした。カメラ方式が駄目だということはすぐ判りましたので、まず胃FSを大腸へ用いることからスタートしました。胃FSを大腸に使うことはすぐ止しましたが、大腸スコープには柔軟さが必要であるという大きなヒントをつかむことができました。前方直視式スコープから始めて直・側レンズ交換式スコープ、プリズム回転式などを試みましたが、結果としてうまくいきませんでした。これらの経験から実用に耐えるCFは、柔軟で視方向は直視式と側視式の特徴を併せ持ったものが必要と考えるに至りました。短いCFの原型となるものができたのが1968年です。長さ67cm、先端はup、down2方向の屈曲が可能で、視方向はdown方向の軽度前方斜視、先端にフードを装着したものでした。はじめから深部を目指せば問題が複雑になるだけだと思い至り、まず条件をできるだけ単純化してスコープの開発をすすめるべきだと判断しました。奥を目指さないのは邪道だ、と松永教授にたたかれたのはこの頃です。弘前大では長いスコープで奥まで、ということで内科の教室をあげてやっておられたが、私(丹羽)は、短いスコープの開発を一人で孤軍奮斗でした。ともに同じオリンパスの技術者(八巻さん、熊木さん)だったと思います。
   CFがなぜ直腸S状結腸曲を越えなかったか、今もって不思議だが、分解式直腸鏡をまず挿入することを試みてから、うまく入るようになりました。」

(5)colonofiberscope本体と生検鉗子

   一方、松永らは口側大腸の検査をめざし、1965年にアングル機構のない2mのスコープを試作し、1966年にはアングル機構のある1m20cmのCFI型機を、1968年にはレンズ洗滌、直視下生検の可能な1m20cmのCFII型機を完成した。1969年には回盲部までの観察が可能な2mの長さのIII型機が開発された(写真5)。これが現在使われているCFの原型である。しかし初期には、深部への挿入はやはり非常に困難であって、1970年の報告では上行結腸への挿入率は8%に過ぎず、検査時間もかなりかかったようである。
   田島強先生の「松永藤雄先生との想い出」という回想記より引用する。
   『私が昭和42年に松永藤雄先生から“オリンパス光学と協力して大腸のファイバースコープの開発について検討するように。”といわれました。とはいっても、細かい指示は全くなく、大学院を終えたばかりの若輩の私にオリンパスとの交渉の一切を任せられました。オリンパスの技術者には毎週のように弘前にきていただきましたし、私も夜行列車で東京八王子のオリンパスの開発本部に何回も通いました。種々の検討の結果、スコープの深部挿入には先端アングルが四方向に湾曲することが絶対に必要であると考え、オリンパスに無理をいってそのように試作して貰いました。最初の試作スコープは、一回も使わない内に壊れるようなものでしたが、何回も改良を重ね、昭和43年にはどうやら実用化可能なものを開発できました。その報告をした折の松永先生の嬉しそうなお顔と、さらに大きな励ましの言葉を今でも忘れることができません。先生は“欧米では大腸疾患が非常に多いし、やがて日本でも欧米のように大腸疾患が多くなるだろう。臨床的に役立つか役立たないかということは、それを普及させる努力をするかしないかにかかっている。大腸ファイバースコープが、臨床的に役立つ検査になるように広く普及させることを、これからは努力しなさい。”とおっしゃられました。』

文献

1)松永藤雄ら:sigmoidocameraによる大腸粘膜の撮影、特に治療による経時的変化の追求、Gastroent. Endosc., 1, 58(A)(1959)
2)田坂定孝、丹羽寛文ら:大腸粘膜およびその他の胃外粘膜の撮影について、Gastroent. Endosc., 7, 403(A)(1965)

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