クリニシアン・消化器関連情報

消化管内視鏡を育てた人々

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第14回 ERCP(付 十二指腸鏡)

長廻 紘(群馬県立がんセンター 院長)

“膵臓・膵管”造影への道

   「私は十二指腸を見るという意志は全くありませんでした。十二指腸に内視鏡を入れる意味は、内視鏡を使って乳頭から膵管や胆管にアプローチする、これしかないと思っていたからです。胆道には直接造影法がありましたが、膵に関しては形態学的な検査法が無く、まさに暗黒の世界でした。実は、臨床研修時代に、末期の膵癌の患者を受け持ちました。しかし、診断がついたのは剖検してからです。」(大井至、2000年6月)
   このような強烈な目的意識のある若くて優秀な内視鏡医がいたことが、ファイバースコープの国産化に成功した日本の内視鏡産学複合体が長い間世界の内視鏡学会に存在感を示し続けた、根本のところにある。
   1969年10月の朝日新聞に「初めて膵臓が見えた」という記事が載った。一般の読者にはさしたることと理解できなかったと思われるが、消化器病のとくに診断にたずさわる者にとっては驚くべきことであった。膵胆管が内視鏡的に造影できる、というニュースは衝撃をもって日本中を、そして世界中をかけめぐった。内からも外からも何としても手のとどかなかったのが膵臓であったから。

   パイオニアの一人である高木国夫先生(癌研外科、現林病院、写真(1))に第一例の思い出を語っていただいた(1999年9月9日 林病院)。
   「発熱・疝痛・黄疸を主訴とした癌研外科へ入院した68歳の男性に第一例を行った。総胆管結石を疑い、1969年6月6日、新しい試みとして、内視鏡的にファーター乳頭にカニューレを挿管して胆管、膵管の造影を試みることにした。
   全身麻酔下に内視鏡を十二指腸下行部に挿入し、送気して十二指腸を拡張すると、乳頭を認めることができた。内視鏡の鉗子孔から直径2ミリのポリエチレンカニューレを挿入し、直視下に乳頭にカニューレを挿管することができた。直ちに造影剤を注入すると、まず、主膵管が造影されてきた。さらに造影剤を追加すると、あふれた造影剤が総胆管に逆流し、拡張した総胆管が造影された(写真(2))。」

(1) 手術中の高木国夫先生

   高木らは、その15日後の6月21日放射線学会(第208回関東地方会)でその成功例を報告している。奇しくも同じ会に東京女子医大の大井至(現同第2病院中検部長、写真(3))らが「十二指腸鏡観察下における膵管造影の試み」として膵管造影に成功した3例の報告をしている。大井の第一例は膵尾部の膵管が造影されたものだった(後述)。内視鏡室からX線室へ被検者を運ぶ問に乳頭部の造影剤は流れてしまったためである。高木の第一例は、カニューレ内の空気を出す(プレフィリング)のを怠り、膵尾部は空気が充ち造影されていない写真である。手探りでやらざるを得ない先覚者につきもののことではある。「まことに、どんなことでも事始めというのはたいへんなのである」

(2) ERCP成功の第1例の膵・胆管造影像(癌研症例)

(3) ERCP第1例成功直後の大井至先生

   後述(十二指腸鏡)するように、苦労のすえ幽門輪を超えて、十二指腸へFSが入るようになると、乳頭がみえる、乳頭がみえると(膵管・胆管を直接視るのは不可能なので)造影して間接的に視よう、というのが当然の流れである。
   大井は、生検用FSで造影を試みたが、そうは簡単に行かなかった。造影専用スコープが必要だということで、竹本忠良教授にはっぱをかけられ、町田製作所に依頼して試作をくり返した。
   68年の7月に発注し、町田製作所が苦労の末、試作品を完成させたのは翌年の1月であった。試作機ができるまでの間、大井は胃を切除した患者の十二指腸で、ファーター乳頭を見ては、乳頭の運動に一人感激していた。「乳頭が動いては、胆汁を出す。それは不思議な光景だった」
   やがて、待ちかねた十二指腸内視鏡の試作品が届いた。内視鏡の大先達で「常々、内視鏡が幽門を越えたら、おれはいつ死んでも思い残すことはない」といっていた近藤(台五郎)先生は、試作品でファーター乳頭を覗くと、思わず感嘆の声を上げ、顔をほころばせた。しかし、目標は膵臓、膵管だ。数ミリ径の膵管を直接覗くことは不可能なことから、乳頭からカテーテルを挿入して、造影剤を注入することで、膵管像をレントゲンで観ようというものであった。膵管造影である。
   「1969.4.18 Duct Pancreaticus、造影成功(写真(3))放射線を担当していた山田明義は、レントゲン室の傍らにあった白板にこう大書した。試作品ができてから二ヵ月後のことだ。
   ここに至るまで、かなりの苦労があった。最初は内視鏡室で造影剤を入れ、患者にレントゲン室まで歩いていってもらうのだが、その間に造影剤が膵管から流出して、いざレントゲン撮影を始めたときには、写るべき膵管が見えなかった。世界で初めて内視鏡で膵管造影が成功するまで、膵管内の造影剤の排泄が、非常に速いということすら知らなかったのだ。あるいは、熱中し過ぎて思わず時間の経つのを忘れていたりなど、さまざまな失敗を繰り返して、ようやく膵管造影に成功したのだ。
   「この苦労は、患者さんとレントゲン技師さん、それと検査に就いていた人でしょう。検査をしている本人は、ただ無我夢中で時問などは問題となりません。3~4時間は平気でたっております。今と違って、内視鏡の視野を見られるのは検査している本人だけです。誠に申し訳ないことをしたと、心から反省しております。」(大井至)
   大井・高木のお二人とも、とくに外人から、どちらが先に造影に成功したのかと聞かれて閉口した、といっているが、欧米人と違い野暮でない日本人が、「実は…」などといわないのは判りきったことである。どちらが先に造影に成功したのか。そんなことは些細なことだ。機が熟して、必要性を感じかつ能力ある者が同じ時期に達成したのだ。ただ、造影に活躍したスコープは前記の如く、女子医大グループがアイデアを出して町田製作所と協力して作ったものである。
   筆者は当時、大井至君と同じ東京女子医大の消化器病センターに居て、その苦労を身近に見ていたので、30年経ってこんな記事を書いても興奮してくる。近くの神楽坂、四谷荒木町などへ行って一緒に飲むぐらいしか能がなかったのだが。
   いつだったか、新宿で飲んでいたら近くの医大の消化器グループの若手が同じ店に居て、「大井先生が居るぞ」といってザワメイたのを鮮明に覚えている。
   今でこそ、US、CTなどより侵襲性の少ない膵臓の検査でもあり、MRCPというERCPに近い画像が得られる検査もある。しかし、ERCPが誕生した頃には膵臓の画像診断法はなかった。ERCPは国内外で、とくに海外で大いに歓迎された。パイオニア達は実技指導・講演にひっぱり凧であった。日本で誕生した、胃カメラと並んで世界に誇るに足るものである。とくにスコープ(十二指腸鏡)の開発からなされた所に大きな価値がある。
   なお、内視鏡を用いて膵管を造影する試みについては、歴史的には必ず文献にMcCuneが25%に成功したとの報告が採用される。しかし、彼の示す膵尾部で広がっていく膵管像は大井によると、今までの膵管造影においても観察されておらず、彼の成績には疑いが持たれている。高木らも、McCuneの報告の写真を見て大きな疑念を感じていたので、前記Gastroenterologyの発表論文の中に「McCune, et al. reported successful pancreatography using 50% hypaque, but their published materials did not show radiographs of good quality.」と記載している。

EPCGからERCPへ

   余談になるが、この検査は日本では当初EPCG(endoscopic pancreato-cholangiography)と称されていた。「誰が命名したかはっきりしません。集まってEPCGについて検討した記憶がなく、自然発生的に使われたものと思います(高木)」。日本製英語であることは間違いなく、皆が使っていた。
   1974年10月メキシコ市で開かれた第3回国際消化器内視鏡会議において、この検査法に関するシンポジウムが開かれ、その際、略語の統一についての意見の交換があった。結局英語を話す人々の語感などを重視してERCPに落ち着いた。そのいきさつが同シンポジウムに参加した小越和栄(欧米ではERCPに固定)、春日井達三(日本でもいずれERCPに)両氏の報告が『胃と腸』10巻4号(1975年)にのっている。それを受ける形で同年の同誌に、竹本、高木、大井3氏連名で短文(内視鏡的膵・胆管造影法の英文略称)が寄せられた。「(小越・春日井)両氏のご見解は、メキシコにおける国際学会で一応討論されて日本側はおしきられたのだから、もはやERCPでも世界の大勢のおもむくところ致仕方ないということだと思える。(中略)国際学会のふんい気は正しいだろうと思うが、おしきられてしまったのだから、致仕方あるまいということでなしに、日本の学会でも十分議論をしてほしい。日本人が苦労してようやく一人前の検査法に育てあげた内視鏡的膵・胆管造影の略称など、外国人が発音しにくいとか、逆行性(R)という言葉が不可欠とかで変える必要はないというのが私達の見解である。」
   これら文献を読み、この文章を記しながら、ある種の感慨を禁じ得ない。胃カメラの開発、ファイバースコープの国産化、各種スコープ(大腸鏡、十二指腸など)の世界に先駆けての市販化、そしてピークである膵胆管造影へと走り続けた日本の内視鏡界に世界の壁が思い知らされた瞬間である。真珠湾から半年後のミッドウェーといえば大げさすぎるでしょうか。たかが言葉の問題というなかれ、内視鏡界といえども言葉で戦う一種の戦場です。自分達が創始し名称をつけた検査法であるのに、いともあっさり(さしたる抵抗の痕もなく)名称変更がなされてしまう。誤解のないように付記すると、筆者が出ていたらうまく行ったなどと夢にも思っていません。日本だなー、日本人だなー、という感慨です。大竹本にして戦場外の『胃と腸』で吠えるしかなかったのです。

十二指腸鏡の開発

   グラスファイバーが取入れられると、内視鏡の首尾範囲は一気に拡がった。コロノスコープ、小腸鏡、ERCPが主要なものである。ファイバースコープ(FS)が導入されてから真のブレークスルーといえるのがERCPである。コロノスコープなどは発想においても、事実においても単なる胃鏡や直腸鏡の延長線上にはっきりみえていたものである。ERCPは意外な所に障害があった。今では考えられないことであるが、スコープを幽門を越えて十二指腸へ挿入すること、したがってファーター乳頭をみることがたいへん難しかった。胃内視鏡が十二指腸に入るはずがない、というのが当時の常識だった。胃FSが完成して、十二指腸が観察できたとの報告も散見されるが、これも再現性に乏しく、「観えた・そんな筈ない」の水掛けに終始した。欧米人に多い牛角胃のような場合、十二指腸に入ってしまうことがあったが、例外であった。大井は著書の中で幽門輪近傍を観察中に偶然、十二指腸に入ってしまい、興奮して竹本教授にいいにいったら、「それなら色素をかけるなどして、ちゃんと十二指腸であることを証明しろ、と一喝された」と書いている。長さは十分あるのにファイバースコープ(FS)でも幽門輪はみえても、それを越すことはできなかった。種々の試みがあって、挫折していつの問にか忘れられていった、というのが十二指腸鏡前史である。
   カメラについては、芦澤らのV型胃カメラをより柔軟にした試作十二指腸カメラによる試みが早いものである。しかし幽門輪を越えることはできなかった。仮に越えても再現性はなく、胃カメラ方式の延長では改良を繰返しても将来性はないとの結論が得られたようである。「幽門輪を越えて、直接十二指腸粘膜を内視鏡的に観察することは極めて困難であり、ご承知のように未だ確実な方法はありません。(中略)以上のように十二指腸粘膜の撮影に一応成功したが、今後さらに器械の改良と撮影法の吟味とを行い、一層精確にかつ新鮮な像を得ることと思います。」(芦澤)
   国産FSが町田製作所によって登場したのをみて、東北大学山形内科では十二指腸内観察を目標とし、長さ2mのライトガイド式のファイバースコープを試作した。そのスコープは先端硬性部が5cmもあり、挿入に多くの困難があった。FSの先端硬性部の長さ・硬さに幽門輪を超えない原因があった。
   大井は胃ファイバースコープ(FGS-CL)が十二指腸球部へ挿入できること、場合によっては下行脚、Vater乳頭の観察も可能であることに気付いていた。その経験から①12mmのFGSの太さは、幽門輪通過に何ら問題とならない。②側視鏡であっても十二指腸は観察でき、とくにくVater乳頭が視野内に認められる。③十二指腸球部に挿入できない大きな原因の一つはFGSの絶対長が足りないことである。④アングル機構とパンニング機構は、狭い内腔のorientationをつけるのに必須である。⑤先端硬性部は短くなければならない。⑥スコープ先端を操縦するためには、スコープにある程度の弾性が必要である、の6項目を十二指腸内視鏡の持つべき基本的な条件と考えた。
   それらの点を改良して大井・市岡らは十二指腸FSを開発した(FDS-I、1968年9月)。このスコープは全長910mm、外径13φの外套管のなかに、有効長1340mm、7φの径の細いファイバースコープを入れた親子式のファイバースコープであった。前方視鏡であるため、Vater乳頭が観察困難であり、次の試作機から側視式に改められ、東北大学山形内科・日本医大常岡内科・東女医大消化器内科と3個所で十二指腸鏡開発がすすめられた。次いで出現したのがIII型機である。FDS-IIIは、全体の走行は素直で、下行部挿入時の被検者の苦痛も非常に軽減した。下行部への挿入はほぼ全例に容易であり、90%以上の例に乳頭を正面から観察できるようになった。
   開発に携わった干窯氏に思い出を語っていただいた。「もう懐かしい話になりますが、十二指腸鏡の開発は今も強く印象に残る仕事の一つです。といいますのも、この仕事には従来に較べて二つの点で大きな特徴があったからです。ひとつは、それまでの胃鏡や大腸鏡の開発では、対象となる管腔壁の全面をくまなく観察可能にすることに第一目標を置きましたが、十二指腸鏡の場合、その目標はひとまずファーター乳頭ただ一点に絞られていたことです。いきおい内視鏡の方も目標に沿った機能に重点が置かれ、短時間に十二指腸へ入ること、ファーター乳頭を視野中央に安定して捉えること、の2点に絞って特化されていきました。やはり難関は十二指腸への挿入で、最も時間と工夫を注ぎ込んだのが、胃と内視鏡の作用反作用に関わる課題でした。結局、挿入部の弾発性を大胆に2段階に分ける、というアイディアの採用が大いに進歩をもたらしました。
   この開発のもう一つの特徴は、ソフト側のリードがたいへん強力であったことです。週に一度の検査日のあとは担当の先生方と反省会を開いて、術中の状況、手技、機器の構造、材料の物性等々、ソフト・ハードの境界を取り払って意見を交え、知恵を出し合って対策を練りました。これがたいへんな勉強になりました。改良課題をまとめ、翌週までにその試作を作り上げるという繰り返しでしたが、やがてソフト側の進歩が急速に伸びて、そこから次々と「目から鱗」の新しい発想や要求事項が生まれました。ひとつの改良が完成する前に、次の要求事項が発生することも度々ありました。ですから、一機種について短期間にこれほどたくさんの試作・改良を行った例はなく、また短期間にこれほど多くのノウハウを積み上げた時期もほかにありません。
   ソフトが進みすぎて戸惑うこともありました。少々の違いなら、どのスコープもそれなりの操作で幽門を越え始めたからです。ハードがひとり“おいてけぼり”にされそうでした。」

文献

1)Takagi, K., et al.: Retrograde pancreatography and cholangiography by fiber duodenoscope. Gastroent., 59, 445~452(1970)
2)猪口修道:東京女子医大ガン治療チーム、講談社、1995年
3)芦澤真六ら:十二指腸カメラに関する研究、Gastroent. Endosc., 2, 64(A), 1960
4)大井至ら:ファイバー十二指腸鏡、Gastroent, Endosc., 11, 272~280(1969)

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