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クリニシアン・消化器関連情報

消化管内視鏡を育てた人々

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第15回 内視鏡的乳頭切開術(EST)

長廻 紘(群馬県立がんセンター 院長)

   ERCPは、それまで診断的にはお手あげに近かった膵・胆管を急に身近なものとした。より近くから、より精密な診断という競争に拍車がかかった。一方は膵管や胆管といった細い管を直接視る方向、他方は治療への応用であった。ERCPという診断法の延長上にあるのが治療法としての乳頭切開(EST)、ERCPという間接観察を直接法へと進めたのが膵・胆管鏡である。
   今回はESTについて述べる。

内視鏡的乳頭切開術(EST)

 内視鏡的乳頭(括約筋)切開術(endoscopic sphincteropapillotomy、EST)は1973年前後に臨床的に用いられるようになった。これは内視鏡的に十二指腸乳頭を観察しながら、膵胆管開口部を切開用ナイフ(パピロトーム)で切開し開大させる方法で、切開には高周波電流を用いる。総胆管結石、良性乳頭狭窄の治療、経口的膵胆管鏡の補助、内視鏡的胆送ドレナージなどと応用範囲は広い。
 ESTは、1973年に京都府立大川井啓市(現JR大阪鉄道病院、写真(1))、杏林大外科相馬智(故人、写真(2))、Classen(ドイツ)によりほとんど同時に、それぞれ独立して開発された。この方法の開発により、総胆管結石症、良性乳頭狭窄症の非観血的治療が可能になった。また経口的膵・胆道鏡の補助として、あるいは内視鏡的逆行性胆管ドレナージ(ERBD※)などにも役立っている。

   開発に成功し、かつその普及に努められた川井先生に本法の開発・実用化当時の苦労についてききました。(2000年12月JR大阪鉄道病院)
   「私がESTに関心を持ったのは1970年です。その年に私は、西ドイツのハノーバーに1年間客員教授として講義に行っていたのです。外来にも出ていましたが、日本人と全く違う胆石(総胆管結石)が多いのです。総胆管が拡張してしまって、その中に石が20個、30個と詰まっていることが多かったのです。石の変なものが総胆管にたまっていて、入り口は狭窄を起こして石がますますたまり、胆石の症状が出てきて、何かできないかと思っていたのですが、入り口を切ったらどうなるかという簡単な話なのです。外科の先生が乳頭切開、乳頭整形(papilloplasty)をやっていらっしゃるのですが、これだったら内視鏡でもできないことはないだろうと考えたわけです。というのは、ERCPで乳頭は見えているし、乳頭の入り口ぐらいはわかるだろう。そこのところをまず物理的に切ったらどうなるかということで、電気凝固とあれをうまく合わせ切るようなメカニカルなsphincterotomというものを日本へ帰ってからオリンパスにお願いして作ってもらったのです。
   総胆管の開く場所と乳頭の膵管が開く場所が違うということがわかってきて、あまりよい材料ではなかったのですが、いずれにしても切りました。そしてレントゲン検査をして調べてみたのですが、切れた後に逆流が起こるが、狭窄は起こっていませんでした。切開部に狭窄の心配だけはないので、やってもいいのではないかということになりました。私は犬の実験は5匹程度しかしていませんが、そのときにやった仕事を、恐らく竹本先生が司会をしている席なのですが、『内視鏡的な治療』という主題でシンポジウムがあったのです。そのときに私のところの中島正継君に演題を出してもらったのです。相馬先生のところにいらっしゃった藤田力也先生もフォローして追加でお出しになりました。そういうことがあって、そのときに臨床例が10例ぐらい重なっていたのですが、“一応何とか切れますよ”ということになりました。

(1) 川井啓市先生

本誌464号より

(2) 相馬智先生

1973年9月日本短波放送にて

   外科の先生は胆嚢切除をしますが、そのときによく起こる遺残結石がEST臨床の第1例目です。胆嚢の中の石はきれいに取れたけれど上のほう(総胆管)に残っていた石が落ち込んできたということがよくあるのです。そういう再発が結構あるので、外科の先生にしてみれば、これを開腹してもう1回手術するのはたいへんなのです。向こうも困ってしまって、私のほうは動物実験は成功したということで外科の先生と話し合っているときに、“実験でやっているあの方法でうまくいかないだろうか”という話をされたのです。それが駒込病院の院長をしている高橋俊雄先生です。症例を持ってこられたので、それではということでやってみたのです。そうすると、石はもちろんERCPで見つかったのですが、その石が乳頭の入口のところにあるのです。顔を出していて落ちかかっているのです。乳頭からの石のお産なのです。“これは切れるでしょう”といって、そのときは少し切ったのです。私達は切れるはずだということでやっていますので、最初から便を集めたのです。なぜそんなことをしたかというと、私達のころは十二指腸虫症というものが多い時代だったのです。その治療は内科でやっていました。そのときにどれだけ出たかということを、便を集めてふるいにかけて便こしをして“何隻出た”という治療があったのです。石が落ちれば便の中に出るに違いないので、便を集めてみようといったその晩に切開後の痛みがあって、うまくいったと思ったので便を調べてみると石が出てきたわけです。それでも切開のせいだというよりも、自然の分娩を見ていただけではないかという気持ちのほうが強かったのです。しかし、何となくいけそうだという気がしていました。
   それからわずか2週間後に外科のほうで“また詰まってしまったので見てほしい”というのです。その症例の場合はもっと大きな石で、乳頭のほうは赤くはれ上がっていますし、これだけ炎症があるのなら向こうに石が詰まっているのだろうということで切ってみると、それもうまくいったのです。それでこちらも自信を持ってしまったのです。」

   ──ERCPの歴史をみると、初期の最も重要な日本人の論文は欧米では何となく無視されているような気がします。川井先生はプライオリティーということをたいへん重視しておられますね。
   「最後まで海外とのやり合いの中で“いつそれをやったか”という日にちが非常に問題になりました。どちらが第一人者かということです。私が一番最初に論文を出したときに、まだ臨床に使って一番早い時期に英文で出したのです。若い先生方にある程度そういうやり方を見ておいてほしいと思うのですが、発表したのは日本なのです。日本は“あっ”とはいうものの、自分達の仕事は自分達の仕事ということで、人の仕事はどうでもいいのです。私達は、うまくいった記録をきちんと出さないのです。私は向こうに行って見ていまして、論文が全てだと思いましたので、まず英文で書く。私は内視鏡的乳頭切開術のpreliminary reportというかたちで出したのです。うちの大学雑誌は博士論文のために持っているようなぺーパーだというと怒られますが、official journalで、商業雑誌ではないのです。私はそこに英文で出したのです。それが1973年です。
   “自分達のほうがもっと先にやっているんだ”といういい方をしていたのがドイツのDemlingのグループです。1973年に京都で第1回アジア太平洋消化器病学会と第1回内視鏡学会があったときに、ちょうどDemlingさんが日本にいらしたのです。私の部屋にいらしたので、そのときにプレプリントを渡していたのです。私のほうから見ると、どうせプレプリントを見てからやっているんだろうと思っていたのですが。それから何回か会議を続けてきて、メモリアルな会議をいくつかやっているのです。というのは、papillotomy 10years oldという主題で、10年経ったときにDemlingが主催してErlangenで会議をやりました。その次にpapillotomy 20years oldといって、そのお弟子さんのHagenmuellerという人がハンブルグでやってくれました。このあたりまでは、どちらが最初かという話題なのです。ただし、論文の上では私がすでに出しているのです。向こうも出しているのですが、それはドイツの医学雑誌の上で、しかも1974年なのです。いかにそれを出すのが大事かということと、ドイツには行っておりましたので、そういう意味では仲がよかったのですが、論文の第2報はアメリカの雑誌、そして第3報をドイツに出したのです。論争というか、その後の若い先生方は、自分が論文を出したら誰が自分の論文を評価してくれるかというと、素晴らしい論文はそれなりに人は見ているかもしれないけれど、内視鏡の技術論でものをいっているようなときは、その後のフォローは自分でやらないと誰もやってくれません。そのへんのところは、継続的に論文を出していったということは、外国ではある程度の評価になったのではないかと思います。ただ、そういう意味では日本での評価は、ESTといっても所詮ERCPの延長線上のものという理解になっています。」

   ──ドイツでの臨床経験と内視鏡医としてのキャリアがうまく結びついてESTの開発につながったのですね。
   「元に戻りますが、ERCPでは、私達が遅れていたために“何か新しいことはないか”と思っているときに、たまたま向こうでの臨床とくっついてやってみたのがESTということです。しかし、これは世界に爆発的に広がりました。今は皆がやる必要もないほどに機械も進歩してきて、細くなってきて、そこまでやらないでも中のほうは覗けるということになってきましたが、ESTというのはそういう位置付けの中で1つの産声を上げたわけです。ただし、その産声というのは内視鏡的な治療ということに対する産声だと考えております。ですから、内科医として正常な組織に切開を加えることにためらいがあったかというと、もちろんためらいはありました。そのためらいというのは、私達は訴訟されたときに“これが良い、これが悪い”という比較ができないのです。外科医が乳頭形成術をやるかやらないかを同一レベルで比較するわけにはいきませんし、そういう意味では、あくまでも外科の先生から依頼されたから私達はやったわけで、自分達で積極的にやろうと思ったわけではありません。その中で結果的によかったので、逆に今があるということでしょうが、そのへんのところは、今の時代の人で同じことがやれるかというと、人によって考え方は違うと思います。」

   相馬の後任教授の立川勲は、相馬智先生を悼むという文章の中で、「1974年6月11日、ある胆道結石の患者に内視鏡的乳頭括約筋切開、胆石除去術が行われました。内視鏡下における外科手術が杏林大学で、日本で最初に行われた歴史的な日であります。この乳頭切開による胆道結石除去の試みは画期的なもので、以来内視鏡を利用した治療法は急速な進歩を遂げました。たとえ外科医といえども、できるだけ患者を傷つけずに治すという相馬先生の医療に対する追求は、まさに先生の面目躍如たるものといえましょう。これより前、1972年7月西ドイツのエルランゲンで開かれた国際内視鏡学会で密かに大乳頭切開について日独医師の論争があったと聞いております。内視鏡用のメスの開発、切開に伴う出血の処置、切開線の方向や長さなど問題点の解決に両国の医師が先陣を争ったに違いありません。」と述べている。

※ERBD(endoscopic retrograde biliary drainage):

   閉塞性黄疸に対する非観血的減黄法で、ESTによって開大した乳頭にチューブを挿入し減黄する方法である。チューブを胆管と十二指腸の間に留置する内痩法(Soehendra、1980)と上部消化管を経て経鼻的に維持する外痩法があり、前者が狭義のERBDとされ、一般的である。

文献

1)Kawai, K., et al.: Preliminary report on endoscopical papillotomy. J. Kyoto Pref. Univ. Med., 82, 353~355(1973)
2)相馬智ら:内視鏡的乳頭括約筋切開術および遺残胆道結石摘出の試み、Gastroenterol. Endosc., 16, 446~452(1974)

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