クリニシアン・消化器関連情報

消化管内視鏡を育てた人々

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第18回 緊急内視鏡検査・止血

長廻 紘(群馬県立がんセンター 院長)

   内視鏡検査は当初においては、X線検査がすでになされたものに対して行われることが圧倒的に多かった。その理由は沢山あるが、主なものは、初期の内視鏡は危険な検査、苦しい検査という位置づけがなされていたためであった。危険はきびしいトレーニングを経たものにのみ回避できた。硬くて太いスコープなので、苦しいのは当然であった。また食道の通過に関しては、盲目(胃カメラ)ないしそれに近い状態(側視鏡によるファイバースコープ)でなされたので、食道の状態が内視鏡検査前に判っていなければ危ない、ということもあった。

   さて、X線では出血源となる病巣を推測することはできるが、本当にそこから出血しているか否かを決めることはできない。内視鏡で出血局所を確認して初めて診断できる。可及的すみやかに内視鏡検査を行うことが重要だが、患者の一般状態が悪いこと、検査条件が悪いこと、スコープの解像力が劣ることなどから、必要性は十分わかっていながらなかなか緊急内視鏡検査に踏み出すことができなかった。

緊急内視鏡検査

   原因の判らない出血(吐血)があって、それを検査する方法があるときは、その方法が一般的でないときでも、試みる人はあるはずである。上部消化管出血に対する早期内視鏡検査の意義と安全性については、パンエンドスコピーの項で紹介したように、胃鏡時代の1950年代に早くもPalmer、Jones らの報告がある。ファイバースコープ時代を開いたHirschowitz(1963)の報告は、一層その臨床の実際における意義を強調したものであった。
   緊急内視鏡検査(emergency or urgent endoscopy, EE)は、できるだけ早く消化管出血の原因解明のためになされる内視鏡検査のことをいう。各種治療法の出揃った最近では、出血を緊急に止める(治療)こととセットにして考えるのが一般的である。
   EEはそれ自体でも重要なことであるが、ひきつづき治療(内視鏡治療)が行いうるので、臨床的に重要視され、あっという間に普及した。現在では消化管出血をみたとき、早期に、かつ積極的に内視鏡検査を行うことは常識になっている。

   本邦で、1964(昭和39)年4月第6回内視鏡学会(仙台)でのシンポジウム「ファイバースコープ」における、京都府立医大増田内科川井啓市(現JR大阪鉄道病院顧問)の発表が最初である。
   EEが普及するのは1971年第13回日本内視鏡学会総会(東京)で、「上部消化管出血と内視鏡」がシンポジウムとしてとりあげられた頃からである。その年の7月にはプラハで国際シンポジウムが開かれた。

   川井先生にEEを始めるに至ったいきさつ、初期の思い出についてききました(2000年12月)。
   「日本に Hirschowitz のスコープが最初に入ったとき、私も使わせてもらいました。当時私は軟性胃鏡を本をみながらやっていたため、視野角の問題(胃カメラだと120度と広角だが、Hirschowitz スコープは30度)をうまく乗り越えることができ、1週間に60例という当時としては非常に多い症例をこなし、仙台のシンポジウムに「出血胃の観察」という題で報告することができました。その当時の時代背景からいいますと、出血するとまず絶食なのです。3~4日絶食して点滴をやって、重湯から始まって3分粥、5分粥、7分粥、全粥という状態にするのに2カ月ぐらいかかります。全粥まで戻ってからレントゲン検査に入るわけです。レントゲン検査をしてから、必要だったら内視鏡検査をするという流れで動いておりましたので、緊急に内視鏡検査をするという考え方は日本では一切なかったのです。「日本では」と申しますのは、すでにアメリカでは硬性胃鏡を使ってE. D. Palmer が1,000例からの出血胃を観察していたのです。
   やってみますと、意外と胃の中はきれいなのです。胃腔というのは広がるので、いくら出血があっても下のほうに落ち込んでいるだけで、噴射するような、飛び出すような出血というのは、自分達が思っているほど見られるわけではないのです。その当時「緊急」という言葉を使っていますが、緊急という言葉が定着してくるのはこの2年後ぐらいです。その当時私達は「出血に関する早期内視鏡」という呼び方をしていました。各病院で出血があって“何かそんなこと(出血例があったらみせてほしい)をいっていたな”ということで私どもに連絡をいただき、ファイバースコープを借りに行って、そして現場の病院に行って検査をするということでやっていました。early endoscopy といっても初出血から7日までと定義しデータを集めたのです。その当時はそれが精一杯だったのです。1971年、プラハで緊急内視鏡検査に関する国際会議が開かれ、たまたまそこに呼ばれて行きました。プラハとカルロビバリというドイツとの国境のところにある温泉町なのですが、そこで2日間会議とシンポジウムとワークショップがあったときに、「緊急内視鏡とは何ぞや」という話題になったわけです。私どもは演題で出血のエピソードから1週間という定義で発表しました。その時期に外国では「緊急で入ってきたときに看護婦がすぐ胃洗浄をして行う内視鏡検査を緊急内視鏡と呼びましょう」という話がそこでも出ていました。私達はそういう意味ではかなり遅れていました。

   外科系の話ですが、私は最初に日赤に出血例のお願いをしに行ったのですが、1年間待っていても1例も紹介してもらえませんでした。ということは、外科医は私達を全く相手にしていないのです。実際に出血源を見つけるために内視鏡検査をする。またはそれを確認するために胃切除をするというのは、私達にとっては基本的なことだったのですが、そういった材料は外科の先生からはありませんでした。出血している患者さんに対するイメージは外科医なりのイメージ、または麻酔科の医者なりのイメージがあるのです。重症例のみが頭の中に入っているので、検査するにしても、手術場で中を見せてほしいといっても入れてくれないのです。“手術場の中で何かあったら麻酔科の責任になるので、そんなことはしてくれるな”ということで、機械を持っていって外の廊下でやりました。外科の先生が対応してくれるようになったのは、3、4年後だったと思います。私がやった仕事の流れの中では、竹本(忠良)・平塚(秀雄)先生達が早くやられました。その後、北里の岡部(治弥)先生が内科学会で特別講演をおやりになりましたし、いずれにしても外科の先生というのは、普段はそうでもないのですが、このことに関してはあまり協力的ではありませんでした。」

止血(内視鏡治療)

   長い間内視鏡は出血の診断のみで、治療は外科的切除にゆだねられていた。1970年代初頭においても事情は次のようにやっと過渡期にさしかかったにすぎなかった。
   「出血胃潰瘍で潰瘍底の露出血管など出血部位をファイバーガストロスコープ直視下に確認した場合、露出血管の焼灼凝固を行って止血させることを試みて有効例を経験しているので、以下その術式などについて解説する。(中略)今日では内視鏡直視下に出血胃潰瘍を認め、しかも露出血管の存在をみた場合、従来のようにその診断のみに満足することはできない。一歩進んで露出血管の焼灼止血を行って、全身状態の急速な改善をはかろうとするのが本法(内視鏡直視下焼灼止血法)である。本法が適切に行われて完全な止血に成功した場合、引き続き緊急手術を行う場合でも、単に輸血などにのみ頼るよりははるかに手術を安全にすることが期待できよう。また出血潰瘍の少なからざる比率においては、あえて危険の大きい緊急手術を避け、全身状態の安全な好転を待ってから期待手術をより安全な条件のもとで行うことが期待できるであろう。さらに、止血成功例のなかには積極的に手術しないで、止血後は内療することもできる」(竹本忠良:内視鏡直視下に行う出血胃潰瘍の露出血管焼灼止血法、今日の消化器病の診断と治療、(1972))

   平塚病院開院20周年(昭和52年)記念講演で竹本は次のように話している。
   「平塚博士の焦点が消化管出血、上部消化管出血なかでも bleeding ulcer(出血潰瘍)に向かって進められ、学会で初めて出血潰瘍の潰瘍底に露出血管が内視鏡的に見えるのだと報告されています。この写真(略)を撮るに当たりましても、真夜中の12時近くに吐血の患者さんが平塚病院に来院し、私(竹本)が車で馳せつけて内視鏡観察をやって、30分後には、緊急手術が行われたというような状態で、こういう研究が始まったわけです。その後、平塚博士はただ単に上部消化管の出血源の診断を内視鏡に行うのではなくて、この露出血管を内視鏡的に何とか治療するということで、electrocoagulation(焼灼止血法)というものを考案なさいまして、内視鏡が単に出血源の診断の役に立つばかりでなく、治療に大いにコントリビュートするということを示された訳であります。」
   ’64年10月の第2回内視鏡学会秋期大会で平塚秀雄は「ファイバースコープによる出血胃の早期観察」という発表を行っている。

   川井先生へのインタビューの続き。
   「私が、一番最初にやったのが電気焼灼です。電気焼灼をすると出血源のところは止まるのですが、できたら出血周辺のところにアルコール注射して、局所を組織的に固定してしまうというやり方が一番効果的な方法だと思います。
   私が感心して見ていた1つの仕事は、阪大からの報告です。阪大に救急センターができて、そこで検査をやられた方は、例えば偶数月と奇数月で検査の種類を変えてしまうのです。これで全くランダムに出ますね。それを集計すると、例数さえ多ければ、部位も例数もほぼ一緒なので比較できます。そこのところで、治療方針ではどうだったかということをやるので、これは臨床的な指標としては非常によいやり方だと思います。“これからダブルブラインドでやりますよ”なんていうデザインでやると、必ず脱落します。
   そういう意味で、歴史的にはそのあたりから電気凝固が始まってきて、電気凝固が双極性だとか単極性だとか、いろんな機械が開発されて、これが今の開発に続いていっているのですが、今一番よくやるのは露出血管先端の機械的なクリッピングではないでしょうか。
   電気焼灼という発想は当初からあったわけではなく、ずっと後になってからです。一番最初にやったのはアルコール注射です。並木先生の“潰瘍の内科的治療では、そこをまず固定してしまったほうが胃液の酸が真正面から当たらなくていいのではないか”という程度の発想からだと思います。電気を使うということが生きてきたのは、日本の場合だと1972年ぐらいからだと思います。かなり遅いことは遅いですね。確実になったのはクリッピングです。」

食道静脈瘤

   消化管出血といえば、潰瘍の出血とともに食道静脈瘤がある。長い間肝硬変の重要な死因とされてきた。腹水コントロールとともに、静脈瘤止血が内視鏡的硬化療法の開発・普及によって可能になり、肝硬変の余命が伸び皮肉にも肝癌が増えている。

   日本における硬化療法のパイオニアである高瀬靖広先生(筑波大学消化器外科、筑波双愛病院院長(写真(1))に開発の経緯などについてききました(2001年2月)。

   ─ 硬化療法を思いつかれたきっかけというか、第一例目についておきかせ下さい。
   「1976年1月、38歳のやや浅黒い男性K.Y.氏(肝硬変による食道静脈瘤患者)がオープン2カ月目の筑波大病院を訪れました。数年前から吐血をくりかえし、その度に入院して輸血しているが、肝機能が悪いためにどこでも手術をしてくれず、地元である大洗の自宅に帰ったが、その翌日に吐血したのでこんどは筑波大病院にきたとのことでした。

(1) 高瀬靖広先生

   ただちに入院してもらい検査をしました。しかし、“高度の肝機能障害のために手術は不能”という結果には変わりはありませんでした。私はK.Y.氏とその一族10数名の前で検討結果を述べました。多くの刺すような眼が私の口元に集まりました。話が進むにつれ、本人を中心とした人の輪に鳴咽が広がりました。そのとたん本人が“先生、いちかばちか、手術やってけれ。このままじゃ、血を吐いて死ぬのを待つだけだっぺ”と懇願されました。頭の片隅に血栓形成性薬剤を内視鏡的に静脈瘤に注入すれば、一時的にせよ出血しない状態にすることができるのではないか、という考え方が芽生えていました。

   なにからなにまで1からの出発でした。まず、“食道静脈瘤の注射療法”には基本的に3つの要素をクリアーする必要があると思いました。注入薬の開発、穿刺針(注射針)と針穴出血防止用バルーンの開発、そしてもう一つはこれらを可能にする専用スコープの製作です。注入薬については南風原筑波大消化器外科助手(現つくば市立病院院長)と動物実験を繰り返して開発を試みました。ところが、完成する前に患者の状態が悪化し、やむをえず既存のもの(エタノールアミン・オレエイト:EO)を使用することになりました。私が自分の血液を用いて in vitro で実験したところ凝固しませんでした。しかし、動物でEOが血液の内皮細胞と長く接触すると血栓のできることがわかりました。
   穿刺針については、国内外にモデルとなるファイバースコープ用の注射針はありませんでした。そこで、(株)トップの倉本氏に硬化療法用穿刺針開発の協力を求めました。倉本氏は当時東京女子医大にいた高田(忠敬)帝京大外科教授とともに、ヒット商品となったPTCDセットの完成に功労のあった方で、私はたまたま彼が熱心にPTCDセットを完成させていく様を身近にみていて、どうしても彼以外にできる人はいないと思ったからです。自宅に招き、座布団をだしてお茶とお菓子をすすめる私に、倉本氏はただならぬものを感じ、“何のお話ですか”と初めはひるみました。しかし出血に怯える患者を救うには、専用の穿刺針とその付属器具の開発が避けられぬことを理解し、“やりましょう”といってくれました。試行錯誤のすえ、ついに7回目のタイプで目的に沿ったものとなりました。この針の開発に平行し、後出血防止のために穿刺孔をしばらく圧迫しておく“肛門側バルーン”も依頼し、手元に届きました。

   スコープについては、今になるとそれほど心配する必要はなかったのですが、様々の工夫を施した特製スコープの開発を企画いたしました。しかし、オリンパス社には比較的速く丁重に断られました。実現の可能性が低いということだったのでしょうが、無理からぬことでした。私が途方にくれていた時、たまたま挨拶にみえた滝沢医療器の滝沢氏が、この話をきいて“やり甲斐のある仕事だ。ぜひ私にやらせてください”といってくれたのです。彼は町田製作所の出身で、当時の仕事ぶりは今日でいう“挑戦者”でした。彼は古巣の町田製作所と大学の間を頻繁に往復し、6カ月という速さで専用スコープFET-550を完成させてくれました。

   ─ 初めて施行した時のことを聞かせてください。
   「患者、K.Y.氏は1977年8月、頻発する吐血に再び大学病院に入院してきました。未完成でもよいから治療してほしいといってききませんでした。そこで、それまでに調査したいくつかの硬化剤について、文献と自らの実験結果も加え、最後に吉野清高筑波大病院薬剤部副部長(現 順天堂大学病院薬剤部長)に相談し、EOを使用することになりました。そして、改めてK.Y.氏とその一族に試験的な治療である旨を確認していただき承諾を得ました。輸血4000mLを用意し、万一の緊急手術とICUの手配も済ませ、1977年10月第1火曜日、午後1時頃、緊張の中に第1回目の施行となりました。しかし、刺入しようとした静脈瘤を穿刺針が貫通し、抜針とともにドゥワーと出血しました。理由は、穿刺針刺入部の長さが6mmと長く、かつ、ベーベルが45度と緩かったからですが、その時はわけがわからずあわてふためき、かねて用意のSB-tubeで圧迫止血しました。初回はこうして失敗に終わりました。しかし、K.Y.氏は直後から案外元気で、点滴チューブをいじりながら“初めてなんだからしょうがないっぺ、今度いつやってくれっか”と逆に励まされたのです。とたんに、私は急に力が抜け、その場に立っているのがやっとという状態になったのを覚えています。

   次の日、助手を務めてくれた南風原先生が“昨日の先生は怖かったよ、速くしろ、速くしろって俺を睨むんだから、でも緊急手術にならなくてよかったね”。また、崎田先生に“どうしてうまくいかなかったんでしょうか”とお聞きしたところ、“先生、それが研究というものですよ”と肩をたたかれました。引き続き1週間に1、2回のペースで、針や口側バルーンなどの改良がすみ次第、何回も試みたところ11月中に静脈瘤は消失してしまいました。お互いに言葉にならぬ涙の退院でした。K.Y.氏が至適な穿刺針刺入部の長さ、圧迫止血用バルーンの空気量・必要使用時間などの器具に関すること、また組織内に硬化剤を入れすぎると組織壊死を招き痛みのでること、静脈瘤内にある量を越えて入れると肉眼的血尿のでることなど、多くのことを教えてくれたのです。そして、1例1例と必死にやっているうちに静脈瘤に針をさしても、硬化剤注入後に後出血防止用バルーンを使えば、あまり危険ではないことがわかってきました。そして、5例目の女性のとき、それまで成功しなかった“内視鏡的食道静脈瘤造影(EVIS)”に初めて成功しました。」

文献

1)Hirschowitz BIら:上部消化管出血に対する早期内視鏡検査、Am. J. Dig., Dis8, 816~825(1963)
2)川井啓市:出血胃に対する観察、Gastroent. Endosc., 6, 151~3(1964)

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