クリニシアン・消化器関連情報

消化管内視鏡を育てた人々

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まとめ(最終回)

長廻 紘(群馬県立がんセンター 院長)

   過去50年間に日本の内視鏡学は世界のトップレベルに達し、それを維持し続けてきています。それは内視鏡医(したがって当然被検者)人口が多い、学会・専門誌への発表論文数が多いことによって示されています。どうしてそのようなことが、いわば突如として日本において起こり得たかは解明されるべき興味あることであります。内視鏡の歴史が浅く、胃鏡時代に内視鏡医は極めて少なく、日本人は体格が貧弱で、内視鏡検査の対象としては問題がある、とさえいわれていたのに、です。
   胃鏡では常岡健二のような天才以外には、解像力というか光量不足で胃癌を早期に発見することは不可能でした。日本を内視鏡王国に駆り立てた根本的な因は胃癌大国という悲しい現実にあったことは疑いありません。したがってその早期発見を可能にした胃カメラの出現が、それに続く因でした。両々相俟って以後の前進を約束しました。
   しかし、胃カメラだけでその後の進展がなかったら局地(日本)的な現象に止まったでしょうが、ファイバースコープの出現が、不断の進歩を約束しました。胃カメラは胃においてのみ可能な方法であって、内視鏡の領域を拡げるものではありませんでしたから。カメラ方式は大腸、十二指腸で試みられたがうまく行きませんでした。
   物事は右肩上がりで進まないと、やがてしぼんでしまいますが、それを防いだのが万能内視鏡方式といえるファイバースコープの国産に成功して、世界の内視鏡工場に日本がなったからです。胃カメラという軟性鏡の経験、細々としてはしていたが一騎当千の人材が胃鏡の世界にいたこと、高度成長期にさしかかっていた日本という国の活力、これらが相俟って、日本で内視鏡が伸びていったと思われます。

   二重造影法によって診断能力を著しく高めたX線との診断能の競合、優秀かつ協力的な消化管病理学者の輩出、などは内視鏡を単なる診断手段に止めず、学問分野とすることにつながりました。それが若い優秀な人材を内視鏡に集める因ともなったのです。消化管は医学の対象としては、とても広いので、集まった人材が競合を通じて有効に配分され、今日に見る消化器病の診断・治療に大活躍の内視鏡をもたらしました。
   何事も満ちれば欠けるのが世の習いです。内視鏡自体がいらなくなることはないでしょうが、日本の内視鏡が世界をリードし続けることができるかどうかは別問題です。もちろん誰がリードしてもかまわず、日本にこだわる必要は毛頭ありませんが、心情としてはジャパンアズNo.1であって欲しいわけです。日本の国としての活力の低下、民族の劣化が云々される今、内視鏡が伸び続けることは、過去50年がフロックでなかったことの証明となります。
   消化器病における課題は何かを見極め、それに内視鏡がどのように貢献できるかを常に考えていくことが日本を世界のリーダーたらしめ続ける上で重要です。

   さて、機器の進歩と内視鏡医の苦闘は、曲がりなりにもたどることができたと思いますが、それとともにあるチームを形成し、内視鏡を前へ進めていった、そういうグループがあったことを忘れるわけにはいきません。東大第一内科8研(胃カメラ)、東北大山形内科、京都府立医大増田内科、東京女子医大消化器病センターなどです。今や各大学に内視鏡科(光学医療診断部)ができて、内視鏡学が学問の一部として世の認知を受けるようになっています。そこまでの歩みは大変だったと思います。
   筆者が身を置き、つぶさにみて来た東京女子医大の竹本教授を中心とするグループの歩みを回顧して、この連載のむすびとさせていただきます。多くのグループがある中で竹本グループを選んだのは、これはある程度以上その内実に通じていないと、とても正しく伝えることはできないからです。決して他のグループより優れている、ということではありません。

左より常岡、竹本、近藤の三氏(1972)

   この世に生きて何かを主張していく上で、正統性ということは無視し得ないことです。内視鏡の世界ではパイオニアにつながる、ということは無視し得ない要素と思います。内視鏡はハードもソフトもいったん開発されると、万人のものになります。万人の前の段階の重要性をパイオニアという言葉で表現したつもりです。この連載を続けていく中で、色々なグループあるいは個人の栄枯盛衰をみるにつけて、精神的な寄り所というものの重要性に思い至りました。竹本忠良ができたばかりの施設(東京女子医大消化器病センター)で、かき集めの人材で先端的な仕事を次々とこなして行くことができたのは、個人の能力はさることながら、やはり近藤台五郎という日本の内視鏡(胃鏡)の草分けの先生を戴き、一緒に働いているということが大きかったと思います。近藤次いで竹本の両教授は胃鏡の経験が多く、ファイバースコープの国産化さらにはFSが全消化管に用いられるようになる時代を身をもって指導しました。
   近藤は、この連載の初めの方で何回も言及したように胃鏡の先覚者です。優秀な後継者に恵まれ、また今や神話の世界の人となっている冲中重雄と一緒に胃鏡を始めた、などといったことのため、先覚者が少なからずいた中で、第一級の先駆者としての地位は不動のものでした。
   近藤台五郎は明治40年生まれ、昭和8年東大医学部卒業。同世代の方々の回想によると、「胃の内視鏡を沖中先生がドイツ遊学の土産に持ち帰られ、内視鏡の将来に着目した近藤先生が率先してこれに当たった。私は患者さんの頭持ちを命ぜられて一緒に仕事をいたしました。その内視鏡は固くて長い1本の棒で、今の内視鏡からは想像もできない代物で、検査はいわば拷問かとも思われる程のものでありましたので、頭持ちが必要でありました。近藤先生は、教室の胃のX線検査を1人でやっておられ、私も先生の指導の下でその一翼を分担したことがありますが、今と違って防護装置もない乱暴なもので、手に生えている毛がなくなったらしばらく検査を休めといわれたことを思い出します。(浅井一太郎、虎の門病院名誉院長)」
   その検査は「先生のそばにスケッチノートを持った画家の方が待機していて、先生が合図すると直ちに胃内視鏡を覗いて、しかも極く短時間覗いただけで所見を手早くスケッチしてしまいます。数日後には胃粘膜の所見が見事な水彩画になって届けられました。近藤先生と画家との息の合った絶妙な連携プレーには感服した次第です。(中尾喜久、自治医大学長)」

   昭和19年、中国の上海同仁医科大学教授。昭和21年帰国東大講師。23年胃腸病院副院長。29年川島胃腸クリニック副院長。昭和41年東京女子医大教授。「内視鏡分野における先生のもう1つの特記すべき御貢献は、昭和24年に執筆された『胃鏡診断学』であろう。この本は戦後間もない劣悪な出版事業の中で、医学の進歩、第五集として出版されたもので、わが国の消化器内視鏡に関するテキストブックとしては、昭和18年に出版された桐原真一氏の胃鏡診断法に次ぐものである。(福地創太郎)」
   竹本の東大時代(第3内科)のことは、この連載の5回目に書きました。東京女子医大へ移ったのが昭和41年です。その頃外科の中山恒明教授のもとで、遠藤光夫、鈴木茂先生達が胃カメラ、食道鏡をやっておられました。が、手足のように働く部隊が要るということで、市岡四象、横山泉、山下克子先生達をつてを頼りに招いて消化器内科教室の基礎固めが始められました。その後、筆者を含む医学部紛争で行き場を失った連中が参加させていただきました。大井至、丸山正隆、田中三千雄君など今も第一線で活躍中です。胃ファイバースコープの改良が当時は教室の主要テーマでしたが、大井によるERCPの開発がブレークスルーとなり、教室が一気に活性化したと記憶しています。ERCPがなければ、竹本のアイデアと活力をもってしても、教室の歩みは数年遅れたかも知れません。
   先に名前をあげた先輩達は、夫々後に東京女子医大の教授になられたことで判るように、研究・指導力とも秀れた方々でしたが、若い連中を泳がせ、腕をふるわせる度量がありました。そのためにまとまりのよい、次々に業績をあげるグループができたといえます。日本の内視鏡の草分けである近藤台五郎教授の存在が、精神的にきわめて重いものであったのはいうまでもありません。

   昭和40年代の消化器病センターないし竹本グループ※では、食道鏡(遠藤光夫、小暮喬 - 東大分院)、胃FSのうちで、色素法・拡大法(鈴木茂、丸山正隆、田中三千雄)、慢性胃炎の萎縮境界(木村健 - 自治医大)、消化管出血の緊急内視鏡検査(平塚秀雄 - 平塚胃腸病院)、十二指腸鏡・ERCP(市岡四象、大井至)、小腸鏡(平塚秀雄、大井至)、大腸鏡(長廻紘)と、当時盛んだった分野はもちろん、まだ海のものとも山のものともわからない分野にも積極的に取組んでいました。そして、それぞれが花開いたことは読者の皆様がよく御承知のことと思います。
※近藤台五郎、常岡健二先生を精神的な柱、壮年期の竹本教授を中心的指導者とする内視鏡勉強グループがあり、
   木曜会と称し、今も活動中。

   もっと広い場をもとめて竹本は山口大学内科へ移りました。新天地でのチーム作りに教授をサポートした岡崎幸紀助教授(現周東総合病院院長)に教室造り、指導方針などについておききしました。
   「1976年6月、竹本教授の着任とともに教室の空気は一変した。
   お前たちはこれまで昼寝ばかりしていたから、これからは夜も寝ずに仕事をしろ、との教授の言葉のもとに、新しい教室造りがはじまった。メインは消化器内視鏡学である。まず、最新の消化器診断技術の習得である。医局員が各地に飛んだ。女子医大の遠藤光夫、鈴木茂、黒川きみえ、順天堂大学の白壁彦夫、京都府立医大の川井啓市の各教授には、山口からの教室員がそれぞれ食らい付くようにしぶとくつきまとった。
   この間に、教室では体制造りを行い、消化管内視鏡では、総括が中村克衛、食道は平田牧三、胃は岡崎幸紀、大腸は浜田義之、胆・膵は河村奨、腹腔鏡は沖田極が中心となってスタートした。一方で、内視鏡機器の整備、改良、開発にも取り組んだ。
   竹本教授の豊富な知識、すぐれた洞察力に基づいた研究テーマと組織造り、医局員の個性を見抜き、その個性を生かした指導方法は、短期間の内に医局員を魅了し、急速な成果を認めるようになった。なによりも、努力をすれば確実に効果となって現れてくるという意識を医局員がもったことが、もっとも変化したところである。
   毎日が厳しかった。とくに、最初の数年は、わが家の布団に寝た記憶は余りない。内視鏡室の検査台がベットになる。
   学会発表が決まる、教授出席のもとリハーサルがあり、徹底的に絞られる。学会発表よりも、このリハーサルの方がはるかに苦しかった。原稿を書き上げ提出すると24時間で返ってくる。赤インクで真っ赤になって。この過程の中で、思考的にも内視鏡学がたたき込まれ、当初は与えられていた研究テーマを、後には自分で見付けだすことができるようになった。

昭和55年6月、ハンブルグでの学会場前で竹本教授と山口大学第一内科の精鋭の一群

右より竹本教授、福本、河原、沖田、宮崎、荻野、岡崎、松田

   数年を経ずして、山口大学第一内科から、消化器内視鏡に関する、日本にそして世界に誇る研究成果が発表されるようになった。まず、1978年には榊信廣が、町田製作所の協力のもとに、胃拡大内視鏡FGS-MLを開発し、驚異的な拡大内視鏡写真を発表した。1979年には、大下芳人のレーザー内視鏡、1980年代に入ると、富士匡のERBD、多田正弘のstrip biopsy 、相部剛の超音波内視鏡による胃壁の5層構造の解析、岡崎の国産電子スコープの開発と続いた。
   この間、色素内視鏡、機能内視鏡、治療内視鏡等、内視鏡の各分野で、追い付き追越し、成果を挙げている。1.5世代から第2世代の中心となったのは、食道では河原清博、胃の飯田洋三、胆・膵の富士匡、大腸の針間喬、腹腔鏡の児玉隆浩であろう。この世代からは、自分自身で研究テーマを探しだせる程に成長していた。そのアイデアは、竹本教授のアドバイスにより素晴らしいものに発展していった。
   竹本教授の教育方針、教育方法はと問われると、渦中にあった身としては簡単には述べられない。すでに、山口大学に赴任された時点で、日本内視鏡学会の重鎮であり、女子医大の教授として、厳しさも定評があったので、当初、医局員には敬意と畏怖の心があった。
   厳しい指摘、叱責はあったものの、深い見識と豊富な経験を身につけた上での即断、即決、即実行の基本姿勢と、的確な指導方針、助言、さらには魔術的とさえ思われた先見性に、医局員は完全に心酔してしまった。学問だけでなく、広い教養から酒、たばこ、身だしなみ、料理、旅行、所持品など日常生活から海外旅行まで含めてである。後になって思うに、当時は私自身、お釈迦さまの手のひらの上の孫悟空であった。教授の指示通りに行えば何事も間違いなくうまく行く、と思うようになり、第一世代は、思考能力が低下していたようである。この点、教授の着任後に入局した世代は冷静であった。

   教授の指導のなかで、もっとも印象的であったのは、医局員それぞれの個性を大事にされたことである。研究者というものは、自己主張がなくてはならない、という持論があり、また、地方人が自己主張がなければ中央では通用しない、ともよくいわれた。教授ご自身も広島の山間部の出身であり、身にしみて感じられたことではないかと思う。
   自己主張の強いものが集まれば、喧嘩の起こることは当然である。暴力沙汰になることもときにはあり、医局の運営上支障がある医局員を、出向させるよう申し出たところ、考え方が短絡すぎると怒られ、悪いところはすべて目を瞑り、よいところだけを伸ばしてやれ、との指示を受けた。お陰で、助教授時代は毎日喧嘩の仲裁をしていたような気がする。しかし、確かに、後に世界的な業績を挙げた医局員はすべて仲裁に入った中に入っていた。

   教授は1976年から、13年ほど在職されただけである。このわずかの間に、山口大学が、消化器内視鏡の世界に多くの足跡を残すことができたのは、ひとえに竹本教授の指導力である。なかでも、医局員のひとりひとりの個性と力量を見抜き、その長所を伸ばし、自信をもたせる指導方針は、これに勝るものではないと思っている。ただし、これができたのは、それまでの教授の学問に対する情熱と深い知識と広い教養と豊富な経験と、卓越した将来を見抜く力量を兼ね備えられていたことによると考えている。
   なお、着任当時は、昭和の松下村塾にするか、と呟いておられたが、その内にいわれなくなった。松蔭の弟子ほどに、勝れたものがいなかったことであろうと解釈している。」
   近藤のエトスが常岡健二、竹本忠良の夫々の教室に受けつがれ、さらに孫・ひ孫弟子達に連綿と受継がれています。

   今回をもって21回にわたる連載を終わります。物事が曖昧模糊としてしまわないうちに、後世に正しい歴史を残すという意図で企画しました。内視鏡医に限らず医者は自分の考え、まして自叙伝など記すようなタイプは稀でしょうから。
   連載をする基本として、「世に媚びて文を作らば 文 文にあらじ」と極力公平を期しましたが、そこは人間おのずから親疎はあり、また大事なことがもれたかも知れません。寛恕を希う次第です。
   本連載をもとに大幅な加筆訂正を加えて今秋、金原出版より上梓する予定です。また治療方面が若干疎であったので、今後1~2回追加していくつもりです。

(了)

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