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消化管内視鏡を育てた人々

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ビッグ・バン ─ 内視鏡の歴史に関する一考察 ─
常岡健二先生を偲んで

長廻 紘(東京女子医科大学 客員教授)

はじめに

   本誌に21回に亘り、「内視鏡を育てた人々」を連載させていただきました。最終回に機会があれば、治療内視鏡について常岡健二先生にお元気な折をみてポリペクトミーについてお話を伺い、本当の終わりにしようと思っていました。常岡先生が長い闘病の末お亡くなりになり、遂にかなわぬことになりました。
   そういうわけで終了から時間が経ちましたが、連載をしながら気付いたことを中心に日本の内視鏡について若干の私見を述べさせていただきます。キーワードは日本の内視鏡が隆盛に向かいその勢いを持続している根本になにがあるか、ということです。このことに関しては別の角度から、「腫瘍内視鏡学(医学書院、2004年)」に述べました。
   あってもなくてもいいようなものがいくら歴史を経てもどうということはありません。現に生き生きと活動しているもの、あるいはそれにつながるものにのみ歴史を考察する価値があります。内視鏡は消化器病学や腫瘍学において極めて重要な地位を占めています。日本の内視鏡従事者や患者の数、そして業績などは世界に冠たるものがあります。その日本の内視鏡がどうしてそのようになったかの考察です。

歴史とはなにか

   内視鏡は100年を超える歴史があります。考えようによってはもっと昔に遡りますが、それは切りのないことです。
   歴史以前というか現実の臨床の役に立つと思えない時代に内視鏡の器機の開発・改良に情熱を燃やした人々が伝えられています。今日の超音速機に比べてのライト兄弟のような人達です。その人達なりの将来ものになるという確たる見通しはあったでしょうが、彼達を駆って近い将来にはうまくいかないと決っている苦闘に向かわせたのは何であったか。体内へ中空の棒状のものを挿入するのはともかく、その先を明るくして(これも可能)なおかつ物を見るのは、簡単なようにみえて当時の技術水準一般から見て困難極まりないことでした。金もダイヤも出るはずのない極地探検に多くの人を向わせた19世紀から20世紀初頭の時代精神、そういうものが内視鏡の分野にもあったとしか考えられません。
   そういった時代に日本人は内視鏡にまったく参入していません。時代を画したといわれるKussmaul スコープは1868(明治元)年です。今日の内視鏡はその延長線上にありますから、少々観察能力に優れていても、日本は世界の中では相手にされないはずです。「ぼうや頑張ってるね」で終わりです。分担金をいくら払っても国連の常任理事国になれない国際社会における現在の日本と同じです。発言権とは歴史に根ざしたものが少なからず、全部では勿論ありませんがあるのです。ちなみに国連は第2次世界大戦の戦勝国がつくったものです。
   胃カメラを開発して世界の内視鏡界へ独力で参入したことと、それに続く一連の出来事が今日の日本の内視鏡界における地位、発言力につながっています。歴史上初めて胃内を確実に隈なく見る、それに伴って素早く早期胃癌診断学を確立したからです。胃カメラが今や影も形もないことはライト兄弟の複葉機がどこも飛んでいなくても、その偉大さに変りがないのと同じです。

胃カメラ

   胃カメラが画期的といっていい歓迎を受けたのは、丁度さしかかっていた国民病としての胃癌の時代に対応できたからです。胃癌は体内の奥深くにできるという病気の性質上、当時の診断学では外から触れるほど大きくなるまで発見不可能、発見しても治せない病気でした。奥だけれどもある意味では体表、というのが解決の糸口とは誰もが思っていましたが。
   戦後しばらくまでの日本では、内視鏡の灯は胃鏡によって細々と灯っているだけでした。日本人は肉体的に虚弱だから胃鏡検査には耐えられないというのが通念でした。そういう時に発想を転じて「視るではなく写す」という方法で胃内観察に成功しました。
   胃の中が確実に見えるとなると多くの人が胃カメラを手に取り、ブームといっていい状況になりました。癌は小さいものが段々大きくなるのは常識として、あるいは一部の臨床家には実体験として知られていたので(文(1))、早期の癌を多く見つけようという競争が始まり、程なくして早期胃癌内視鏡分類ができました。
   ここで忘れてならないのが胃カメラの特性、すなわち胃内を直接視るのではなく、撮影したフィルムを読む、という方法の診断法だったことです。そのため細かい所まで注意して読むという精緻な診断学の確立につながりました。またその読影の面白さ楽しさが多くの人を胃カメラに誘い込みました。

(1)久留 勝(がんセンター初代院長)の回想「癌三題」

   さてこのポリープから癌が出来るのを、自分で体験する機会が到来した。直腸癌を想わせる症状の、一人の患者があった。さっそく直腸の中をのぞいて調べると、丁度大きさのみならず、色や恰好まで苺そっくりのポリープが見つかった。三センチ位の柄で腸の粘膜にくっついている。その一部をとって顕微鏡で調べると、まぎれもなく腺腫で、まだ癌にはなっていない。従って肛門から管を入れて、その柄の所を電気で焼き切れば簡単に癒る。私はその患者にその治療法を奨めたのである。ところが患者が繰り返し「病気は癌ですか」と聞く。「いや幸いなことにまだ癌ではない」と答えると、患者は「有難うございました」と云って、そのまま帰ってしまった。
   一年半あまりたって、その患者が又やって来た。早速又管を入れて直腸の奥を調べると、以前あったポリープは跡かたもなく消失して、その代りに紛う方なき直腸癌が大きくその場所を塞いでいる。患者に「もう今度は電気で焼いた位では駄目だ。ちゃんとした直腸を切る手術が必要だ」と説くと、失望落胆して帰って行った。ここで私は図らずも前癌状態から比較的短時日の間に癌が出来るのを自らの眼で見たのである。


癌研附属病院開院(昭和9年)当時

胃カメラからファイバースコープヘ

   胃カメラは診断の一手段にすぎないことを超えて裏に胃癌の恐怖があったことと相まって、社会現象といっていい拡がりをみせました。今に至るも内視鏡のことをカメラというぐらいです。胃カメラの時代が長く続くと思って当然です。少なくとも胃カメラ製造会社はそう思い願ったはずです。しかし、急速にファイバースコープ(FS)の時代に代って行きました。初期のFSは不完全なものでカメラの方が優れていると主張する余地は多々あったのですから、胃カメラの時代はもう数年長く続いても少しもおかしくありませんでした。結局のところFSの方がよく、何よりも将来展望がありました。そういってしまえばそれまでですが、筆者が強調したいのはそういうことではありません。
   歴史の教える所の大きなものの一つに、いわゆる「成功体験のわな」というのがあります。個人、会社そして国家や戦争などでも、ある成功があると時代や状況が変わってもその「うまく行った」の夢にうかされ新しい時代、新しい状況に乗り遅れる、という例の教えです。バブル崩壊以降、例を山ほど見せられました。日露戦争とくに日本海々戦はあまりにもうまくいったので、その後ずっと日露戦後40年も経ち技術と環境もすっかり変わった航空機時代の第2次大戦で痛い目に会うまで大艦巨砲主義に固執したのが日本の近い過去です。
   何でも胃カメラ、大腸でも十二指腸でもカメラ方式で、と考えかつ実行した人やグループがあったのは異とするに足りずむしろ当然といっていいぐらいでした。なに故にこんなことを長々と書いているかというと、これなくして以下へすんなり続かないからです。

木曜会グループと町田製作所

   そこに登場するのが近藤台五郎先生を中心とする木曜会グループ(文(2))と町田製作所でした。日本で唯一といっていいぐらい胃鏡を精力的に情熱をもって取組んでいたのが木曜会。対象を直接みるという内視鏡の本流の胃鏡、その胃鏡の次の世代はHirschowitz の開発したFSである、とすぐにその将来性に気付いたグループでした。
 この木曜会グループの情熱を意気に感じてFSの国産化に社運をかけて取組み、見事期待に応えたのが硬性鏡メーカーの町田製作所でした。胃カメラ製造メーカーもいずれFS製造に向ったとしても、町田による早期の国産化がなければもう数年間胃カメラ製造に力を入れ続けたかも知れません。
 そんなことはどうでもいい、単なる2~3年の問題にすぎない、といった考えもあるでしょう。しかし、物事には時というものがあります。一旦逃すと二度と戻ってこない時が。当事者達はおそらく気付いていなかったと思いますが、今から思うと運命の2~3年でした。歴史にifはないといいますが。

 歴史とくに戦史(例えばミッドウェー海戦)に運命の数分間というのがあります。戦争は数分、数時間ですが内視鏡は2~3年。その2~3年の遅れがもしあったならFSは日本ではなく某甲国で生産され、それに自動的に続く十二指腸鏡や大腸鏡などの一連の開発もその某甲国で進んだ可能性が大です。ゲノム解読における数々の独創を結果としてつぶし続け、解読全体において全体の6%しか貢献できなかった日本のシステムの欠陥をついて、「日本人には独創性がないのではなく、日本という国に独創性の芽を摘んでしまう風土があるんです。」と岸宣仁(「ゲノム敗北(ダイヤモンド社、2004年)」)に言わしめた日本ですから。時代は移って電子スコープは某乙国で開発されました。その頃にはすでに内視鏡を作って売るのは日本と決っていたようなもので、後の先を取るのは簡単で、次に述べるビッグ・バンの余慶といえます。内視鏡がどこで作られようとそれがよいものならどうということはありませんが、われわれにとっては内視鏡の開発製造センターが身近にあることは図り知れない恩恵となっています。

(2)木曜会

   Hirschowitz のファイバースコープ(FS)が輸入され、最初に使用されたのは1962年6月1日(木曜日、虎の門病院)であった。参加者全員がFSの素晴らしさと将来性に瞠目した。当時川島式硬性胃鏡を製作し、虎の門グループと産学協同していた町田製作所の社長に説き、町田は胃鏡からFSに切り替えることに社運をかけた。それを契機にFSの開発研究や論文・学会予演のため平塚胃腸病院で夜遅くまで議論するようになった。前記6月1日がたまたま近藤台五郎(元東京女子医大教授)の誕生日だったので以後木曜会と称している。会長は初代近藤台五郎、二代目常岡健二(元日本医科大学学長)、2005年より平塚秀雄(平塚胃腸病院理事長)が三代目。なお山口大学名誉教授竹本忠良が最初期より中心となって今日に至っている。

内視鏡のビッグ・バン

   今から思うと胃カメラ開発とFSの国産化は、日本の内視鏡のビッグ・バン(BB)でした。あえてBBというのは内視鏡が実際の役に立つ、大いに役に立つことを実証したのと、その後の内視鏡の展開を決めてしまったからです。お前のいうことは大げさで飛躍しすぎだといわれるのを承知で続けると、信長、秀吉、家康の3人が引続いて出るというBBが江戸時代300年の平和を決めました。それと同じように、確実に診断をつける器機とはいい難かった内視鏡を立派なモダリティーとして確立したのがBBでした。日本の内視鏡のBBと遠慮していったのですが実は世界のです。そしてそれによって現在までのコースは決ってしまったといっても過言ではありません。例えば、筆者も少なからず関与したコロノスコープですが、誰があるいはどの会社が作るか、それはいつかといったようなことは、FS方式が現実のものとなっていたのでささいなことと位置づけられます。いうまでもなくコロノスコープ自体は偉大な内視鏡ですが。
   FSの次の時代を担っている電子スコープにしても、内視鏡が極めて優れた診断機器であり、市場は広いと分かってしまえば、より優れた技術が開発されれば誰かが内視鏡に用いるのを止めようとしても止められるものではありません。BBをもった日本は世界の内視鏡界において堂々と常任理事国の位置を占めています。このBBを生み出した物質的(技術革新)、社会的(胃癌大国と平均寿命延長が日本人にもたらした健康指向)などと並んで精神的・心情的条件すなわちBBを生んだ人達を駆り立てて内視鏡革命に向かわせたものが何であったかを解明するのが、将来書かれるであろう本格的な内視鏡の歴史の担当者の責務と思います。

   まだ海のものとも山のものとも判りませんが、ひょっとして次のBB(本当のBBは一回きりのものですが)をもたらす可能性があるのがカプセル内視鏡です。胃カメラの現代版といってもいいですが、次元は明らかに異なります。もちろん硬性鏡 - FS - 電子スコープといった流れとも異なります。これが予期どおり物の役に立つようになったら、それは確実にBBで、成功体験のワナにはまり従来の流れから脱けられない日本は、置いてけ堀にはまっているかも知れません。国際連盟の理事国だったのが国際連合の単なる加盟国になってしまったように。個人的には、そのような内視鏡には魅力も未練も感じません。医者はとは言わないが、内視鏡のとりこになった人の少なからぬ部分は、小さなあるいは難かしい病変を見出すことに情熱をそそいでいる。早期胃癌研究会の盛況はそのことを語っている。

   常岡先生のことを偲んで色々考えているうちに、このような文章ができました。

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